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第9話
「兄貴ッ。ごめん、俺……俺、そんなつもりじゃなかったんだ。兄貴を裏切るつもりなんて、俺」
耐え切れないといった風情で飛び出してくると、佳は陸を見上げる姿勢で目を潤ませた。ごめんと口では言いながら、自分は悪くないのだと全身で訴えてくる弟が、昔から嫌いで嫌いで仕方なかった。苛立ちとも怒りとも違う、言葉にできない煮詰められた感情が、陸という器から溢れて地面を汚していく。
利き腕が上がったのは無意識だった。少しの手心もなく振り下ろした手は、佳の前に飛び込んできた人物を殴りつける。
「ッッ、い、痛っ」
バランスを崩して地面に手をついた暁人が、打たれた頬を押さえながら血を吐き出す。口の中が切れたのか、鮮やかな赤が灰色の敷石の上に落ちるのを、どこか他人事のように眺めていた。
「暁人、大丈夫か?!」
慌てて暁人にすがりつく佳に、これは一体なんの茶番だと笑い出しそうになる。兄の恋人を寝とった弟と、恋人の弟と関係を持った男を前に、許されない恋に落ちた二人を責めるピエロにでもなれというのか。
「気持ち悪いんだよ、お前ら」
溢れ出た憎悪は、簡単に人を蔑める言葉を形にする。そうすることで逆に、自分が傷ついたのだと悟らせてしまうのに止められなかった。
「陸、俺は陸と別れない」
「……いい加減にしろ」
ようやく傾きかけた太陽を察知した蝉たちが、雌を誘うために彼方此方で声を張り上げている。
一体何様のつもりだと睨みつける視線に敵意を込めると、陸は二人に背を向けて歩き出した。腹立たしいのか、憎いのか、情けないのか、悲しいのか、寂しいのか。ぐちゃぐちゃになった感情に、どれが本音なのかも分からなくなる。
ただ二人の存在から逃げたくて、彼らのいない世界に行ってしまいたくて、止まることなく足を動かした。目の奥に走る感情的な痛みを認めたくなかった。
母の記憶は、いつも頬を叩かれる衝撃から始まる。
五歳年下の佳が生まれる以前も、陸と母の関係はあまり良いものではなかった。長男だった陸の教育は、当時隣に居を構えていた祖母が主導していた。
小学校の校長職についていた祖母は、いつも折り目正しく隙がなく、仕事も家庭も疎かにしない完璧な人だった。そんな祖母を、実の親子でありながら疎んでいる。それが陸の母だった。
『陸はおばあちゃんっ子だから』
箸の持ち方から就学前の学習まで、あらゆることを祖母から躾けられた陸のことを、母はそう言って遠ざけた。そして弟ができたと分かるや、今度こそ自分だけの子にしようと溺愛し、あらゆる面で兄と差をつけるようになった。
大人しい子どもだった陸とは反対に、佳は少しもじっとしていないやんちゃな子どもだった。繋いだ手を振り払って走り出した佳が転ぶと、母は陸の頬を叩いた。決して強い力ではなかったはずなのに、痛くて泣きそうになったのを覚えている。
ちゃんと佳を見てあげなさい、お兄ちゃんでしょう。母が陸と会話をするときは、いつだって話の中心は佳だった。弟を守ることだけが、母から兄に与えられる要求だった。
無口な父は面倒な親子の諍いなど見て見ないふり。そんな両親の愛に飢えながらも、どこかで軽蔑の眼差しを向けていた陸は、確かに母の子ではなくあの祖母の子どもだったのかもしれない。
「それ、温くなっちゃってるよ」
肩を叩かれて我に帰ると、ぼんやりと眺めていた窓の外はすっかり暗くなっていた。開けっ放しのカーテンから入る街灯に照らされた聡介が、手に握り締めたままだったラムネの瓶をそっと取り上げる。
「僕も飲みたくなっちゃったから、冷えてるのと交換してくるね」
「す、すみません。夕食の準備とかまだ何も」
「いいから、いいから。座ってて」
明かりをつけることなく冷蔵庫まで歩くと、聡介はここでも常備している青い瓶を二本取り出した。そのまま街灯と月明かりだけが頼りの窓際に座り込むと、専用のオープナーを使い軽快な音と共にビー玉を落下させる。
「このガラスの感触を楽しめるのもあと少しか」
「それ、十年前にも言われてましたよ」
「え、そうだっけ。おじさんになるわけだなぁ」
ほんの少し和んだ空気に、陸の顔にもわずかに笑みが浮かぶ。聡介は変わらない。十年前からずっと、まるで変わることのないあの離れの化石のように、いつもそこに居てくれる。
「楽になるなら、話しなさい」
溢れた炭酸が瓶を伝い、フローリングの床をわずかに汚した。しゅわしゅわと泡の弾ける音が、静かになったリビングを満たしていく。
「先生、俺は、俺は本当に、どうしようもない人間です」
一度決壊してしまうと、涙は後から後から溢れ落ちた。いい歳をした男がみっともないのは百も承知だ。
けれど本当に、もうどうしようもなく、痛くて辛かった。自分で罠を仕掛けておきながら、裏切らないで欲しいとこんなにも望んでいた現実に、今さら涙が止まらなかった。
「そんなことはない。君は悪くない。もっと怒って、詰って、泣いて、全部吐き出して……忘れてしまいなさい」
溢れたラムネのものなのか、そっと頬を撫でる聡介の手からは微かに甘い匂いがした。
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