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第10話

 初めて見たその人は、なんだかこの世の住人ではないような清廉な空気を漂わせていた。  真っ直ぐに伸びた背筋の上に乗った、小さくて形の良い頭。抱えた古書を一冊ずつ直していく手は薄く締まった肉に包まれていて、長くしなやかな指先まで寸分の隙もなく美しかった。  聡介の古い離れは、小学生の暁人には秘密基地のような場所だった。玄関の鍵は貰ってはいなかったが、あちこちガタのきている家屋への侵入など難しくはない。集めた蝉の抜け殻や、甲虫や蟷螂を捕まえた虫かご。厳しい祖父の目が届かない離れは、暁人の大切な宝物の隠し場所だった。  秘密基地に見知らぬ客が訪れ出したのは、暁人が小五になった年の夏だった。いつものように虫取り網を持って台所の裏口から入ると、洋館の方から微かに物音が聞こえてきた。  平日の昼間に居るはずのない人の気配に、泥棒かと用心しながら外に回った。庭の手入れに関心のない持ち主の離れは、あちこち雑草が伸び放題だ。  音を立てないようにこっそりと近づき、爪先立ちにならないと届かない洋館の窓の縁にしがみつく。必死に首を伸ばした暁人の目に入ってきたのは、中学校の制服を着た凛とした年上の人だった。  懐かしい夢から覚めると、不快な脱力感が全身を覆っていた。  舌打ちをして起き上がると、サイドボードに置いてあるペットボトルの水をひと息に飲み干す。一人きりの寝室は、まだそこ此処に陸の気配が残っている。いつも素っ気なくてつれない、愛しくて憎らしい人の匂いがする。  空になったボトルを持って立ち上がると、暁人は寝室のドアを開けた。ゴミを捨てるついでに見たリビングの時計は、青白い蛍光色の針が午後十時を指そうとしている。 「明かりくらいつけたら?」  ソファの上で膝を抱えている佳に声をかけると、影が身じろいで此方を向くのが分かった。適当に置いてあった菓子をいくつか取ると、冷蔵庫から出した炭酸水を持ってリビングに向かう。  壁についたスイッチを押すと、中高色のライトが暗く沈んだ空間を明るく照らし出した。 「適当に食べて」  小さな折りたたみテーブルの上に開けたスナック菓子を広げると、腫れぼったい目をした佳が抱えた膝から顔を上げる。  薄いポテトチップスの塩気を口に含みながらテレビをつけると、画面の中は今夜も能天気で無責任な笑いが空々しく響いていた。 「なぁ、俺たちって付き合うのか」  ワイプの中の芸人たちが、面白いとも思えない進行役の言葉に大袈裟な身振りで悶えている。視線を画面から逸らさないまま、暁人は口の中のポテトをぱきりと噛み砕いてから咀嚼した。 「なんで?」  素直に感じたことを口にすると、すぐ側にある気配が戸惑うのが分かった。それに構うことなく炭酸水のボトルを直飲みすると、ピリピリとした刺激が喉を下りていく。 「俺と付き合ったりしたら、今度こそ本当にお兄ちゃんから嫌われちゃうよ。あの人かなり潔癖だし、そもそも君のこと嫌いみたいだからさ、葬式ですら顔見せてくれなくなるかも」 「それ、は」 「まあどっちにしても、佳くんは一番の目的は果たしたわけだからもういいでしょう。気に入らない間男を厄介払いできて、スッキリした?」  わざと直接的な言葉を突きつけながら視線を合わせると、切れ長の陸とは造りそのものが違う、大きくて丸い目が見開かれる。  鹿嶋佳が自分と陸の関係を快く思っていないことは、マンションの前で出会った時から分かっていた。彼の気さくで明るい弟の仮面を信じるふりをしたのは、率直に言って暁人もまた佳のことが気に入らなかったからだ。兄弟ではなく個として陸を見ている男を、許容する気などなかった。 「なんだ、バレてたのかよ」  取り繕うことをやめたのか、抱えていた膝を解くと佳は置かれたポテトチップを鷲掴みにして口に押し込んだ。しおらしいのも結局演技かと、そこ素直に笑っておく。 「随分と身体をはった妨害工作するんだね」 「ほっとけよ。お前みたいな奴との付き合い止めさせられるなら、兄貴に嫌われるくらいなんてことねぇよ。どうせ最初から、底辺まで嫌われてるんだからさ」 「自虐的だなぁ」 「アンタこそ、俺の狙いが分かっていたなら、なんでホイホイ誘いに乗ったんだよ。結局、誰でもいいんだろ。それなら一人で好きに楽しくやってさ、もう二度と兄貴に付き纏わないでくんないかな」 「佳くんは、本当に陸と違って素直だね」 「兄貴のこと呼び捨てにすんのも、今すぐやめろ」  心底気に入らないといった目で睨んでくる佳のストレートさに、陸が彼を苦手としている原因がよく分かる。佳は確かに良い子の仮面を被ることも上手だが、根の部分は素直で真っ直ぐだ。  だからこそ、陸は彼を憎みつつも苦しんでいるのだろう。肉親の情とは、あらゆる感情を含んだ重い楔だ。永遠の平行線に立つ、ドッペルゲンガーのような己の写し身。自分の中に沈殿した愛憎もまた、拾うことも捨てることもできず澱のように溜まり続けている。 「俺が君と寝たのはね、好奇心だよ。君たちは似てない兄弟だけど、面影がまったくないわけじゃない。だからもしかしたらと思った。佳くんだって期待してたでしょう。俺とやれば、大好きなお兄ちゃんがどんなセックスしてるのか知ることが出来るんじゃないかってさ」  図星でしょうと言ってやると、ほんのわずかな空白時間を経て、佳の顔が怒りに赤く染まった。

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