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第15話

「痛ッ」  いきなり強い力で肩を掴まれたかと思うと、そのまま油断していた所を体重をかけて押し倒される。大人二人が倒れ込む物凄い音がしたが、単身者の多いマンションで平日の昼間に駆けつける人間など皆無だ。  至近距離で睨み合う暁人の顔が、ひどく苦しそうに歪んでいる。聡介が残した跡がピリピリと熱い。何もかもめちゃくちゃだ。暁人と佳を罵る資格なんて、もうどこにも残されてはいない。  シャツの襟首が強引に伸ばされて、肩口に残された噛み跡が露わにされる。まだ青黒い色の残る場所をゆっくりと指の腹でなぞられると、ぞくりとした悪寒のようなものが走り抜けた。 「ねぇ、なんであの時、すぐに否定してくれなかったの?」  大きな琥珀色の目に水の膜が張る。あの夏の日、永遠に気持ちを封印するつもりで訪れた場所。こちらを見て頬を紅潮させていた、まだ線の細かった少年。 『俺も陸が好きだから』  不意に差し出された真っ直ぐな暁人の好意は、要らないと返すにはあまりにきらきらと美しかった。梶の家の跡取りとして、聡介の息子として誰からも愛されている少年が、親兄弟にさえ疎まれる自分を好きだと言ってくれた。  多感な時期のほんの気まぐれでもなんでも、人から大好きだと、必要だと言って抱きしめられたのは初めてだった。 「暁人、俺は……お、れは」  愛すべきあの離れの空間で、彼と過ごした時間もまた、大切で温かい記憶だった。聡介に抱く絶対的なものとは違っても、暁人を嫌いなはずがない。 「梶聡介の身代わりが欲しかったんだろう。それがどんなに浮気をされても、身勝手な最低野郎と別れようとしなかった本当の理由だ」  違う、そんなつもりはない、暁人を聡介の代わりだなんて考えたことはない。それなのに舌の根は震えるばかりで、否定する言葉がひとつも出てこない。 「ほら、陸はそうやって、いつも黙り込んでばかりだ。俺が好きだと言い続けても、浮気を繰り返しても、耐えてますって態度で知らん顔をする。俺は、俺は陸にとって何だったの。俺たちが一緒にいた時間は、一体何だったんだよッ」  吐き捨てるように叫ぶ暁人に返す言葉もなくて、ただ手を伸ばして栗色の頭を抱きしめた。生まれつきのくせ毛が跳ねて頬をくすぐる。それがまだ小学生だった少年の頃を思い出させて、切なさに息が苦しくなる。  遠くで空が唸る音がしていた。また嵐が来る。聡介に初めて抱かれた窓辺で、陸は近づく暁人の口づけを受け入れた。  いつもの苦しいほどに食いついてくるキスとは違う。中学生の暁人が恐る恐るしてくれたような、淡くて優しいだけのキスが何度も繰り返される。 「今夜十時、大学生になった陸と初めてデートした場所で待ってる」 「暁人、それ……は」 「父さんが居る前で出て来られるものなら、来て見せてよ。最後に、陸を抱かせて」  もう一度近づいてきた唇が、今度は味わうように舌先で下唇を舐めてから離れていった。耳の裏をかすめた一瞬の指の感触に、小さな震えが背筋を駆け抜ける。無理だと縋り付こうとしたのに、暁人はするりと避けて立ち上がってしまう。  呆然と座り込んでいる陸を一瞥すると、暁人はさよならも言わずに部屋を出て行った。

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