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第16話

 もしも暁人が浮気を繰り返したりしなければ、佳が自分たちの前に現れたとしても何かが違っていたのだろうか。  あとは味噌を入れるだけの状態で冷えた味噌汁を見つめながら、今さら考えても仕方のないことを繰り返し想像する。もしもすぐに訂正していれば、告白を受け入れなければ、中途半端な付き合いを続けなければ、同棲などしなければ、弟が同じ大学に来なければ。  いくらでも出てくる過程は、結局のところただの責任逃れだ。暁人が沈黙しているのをいいことになあなあに扱い、貴重な学生時代の時間を浪費させた。彼のあの琥珀色の目が、きらきらと全身で好きだと訴えてくる空気が、何気なく過ごす二人の時間が、心地良すぎて手離せなかった。  けれど特別な友人止まりの位置を望んでいた陸と、恋愛対象としての位置を望んでいた暁人の関係が、それで上手くいくはずがない。  キスまでは平気だった。まだ自分より背の低かった暁人が、背伸びをしながら顔を寄せてきた時は、なんだか可愛くて可愛くて、こちらから少し屈んで唇を合わせた。  進学校に通っていた暁人は、大学生の陸に負けないくらい多忙だった。厳しいという祖父の下で、彼が必死に努力をして時間を作ってくれていることは分かっていた。  それなのに、頭では分かっているのに、付き合っていたら当然の触れ合いを求められると嫌な気持ちが先に立つようになった。可愛かったキスは次第に深く欲を高めるものになり、肌を撫でる手がざらりと神経を刺激する。最もらしい言い訳をして陸が逃げる度、暁人の目は冷たい色を宿すようになっていった。  セックスはできないくせに、暁人が離れることは怖い。絶対者である聡介の息子という、切り離したくても切り離せない糸に絡め取られた二人の関係は、いつ壊れてもおかしくないヒビだらけの物に成り果てていた。 「ただいまぁ、やれやれまた雨が酷くなってきたよ。嫌なお天気だね」  玄関のドアが開く音と聞こえてきた聡介の声に、物思いに沈んでいた意識が引き戻される。反射的な窓の方に目をやると、少し前まで小雨になっていた雨は、また轟音をたてる激しさを取り戻していた。 「陸くん?」 「あ、おかえりなさい。すぐに夕食のご用意しますね」 「どうしたの、少し顔色が悪いよ」  出来上がっていた夕食を温め直そうとした陸の額に、聡介の冷たい手が触れる。どくどくと心臓がうるさいのは何が原因だ。  数日ぶりに触れられたことを喜ぶ気持ちと、昼間ここでした暁人とのやり取りへの後ろめたさに、自分の本音すら見えなくなってしまう。 「雨に……昼間、タイミング悪い時に振られてしまったので、風邪をひきかけているのかもしれません。大したことはないので大丈夫です」 「無理はしないでね。あ、風邪薬ちょうどきらしてたなぁ。まだドラッグストアは開いてるし、買ってこようか」 「ほ、本当に大丈夫ですから」  本気で心配をしてくれている聡介に申し訳なく思いつつ、手早く温め直した夕食をテーブルの上に並べていく。  聡介の帰宅時間は、だいたい夜の八時前後と決まっている。ふと壁掛け時計を見ながら何時に出るかを考えそうになり、慌てて陸は首を振った。  行けない、行けるはずがない。行ったところでそれが何になる。もうこれ以上、暁人と傷つけ合いたくない。 「先生、今夜も持ち込みされているんですか?」 「ん、んんーまあね。急いで纏めあげちゃいたい件があるんだ。僕のことは気にせず、今夜は早めに休みなさい」 「……はい」  夕食をすませ先に風呂に入る聡介を見送ると、陸は後片付けをしながら窓を閉めても響いてくる雨音に耳を澄ませていた。  どこか離れた場所で、雷雲が唸る音がひびいている。最後の一枚を食洗機に入れてスイッチを押すと、陸は自分に割り当てられている部屋に入って薄手のパーカーを羽織りスマートフォンと財布をポケットにねじ込んだ。  そしてそのまま、玄関に向かう途中にある洗面所のドアを開けると、浴室にいる聡介に声をかける。 「先生、やっぱり風邪薬を買ってきます。すぐに戻りますから」  

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