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第25話
『僕のお気に入りを離れから取ってきてくれないかな』
聡介にそう言われたときから、なんとなく察してはいた。自分たちの関係は単純にして複雑で、答えは目の前に転がっているのに、散らかった空間のどこにあるのかが分からない。それともこれは初めから、はっきりとした答えなどない問題だったのだろうか。
「そんなところに突っ立ってると、熱中症で倒れるよ」
夕暮れ少し前に着いた離れで待っていたのは、小さな虫籠の中身を縁側で寄り分けている暁人だった。足元に置かれた線香の煙が、懐かしいような香りを漂わせている。
「あれ、めずらしいな」
林の奥から聞こえてきた甲高い澄んだ声に、陸も思わず振り返る。やがて最後にキッキッと鳴くと、それきりもう鳴くことはなかった。
「競う相手がいないのかな。なんか寂しいね」
一度だけ鳴いて消えてしまったヒグラシの声は、去りゆく季節への選別のようだ。黙って隣に腰を下ろしても、暁人は特に何を言うわけでもなく虫かごに集めた蝉の抜け殻をより分けている。
「あ、見てこれ。今日見つけた中で一番の抜け殻。アブラ蝉だけどね」
摘み上げられた薄い茶色の殻は、背中の割れ目も分かりにくいほど綺麗な形を保っている。それを縁側に置いていた小さな空き瓶にいれると、蓋をしてから陸の手に握らされる。
「虫が羽化して成虫になるのってもの凄く奇跡的で幸運なことなんだ。特に長い歳月を土の中で過ごした蝉は、忍耐強い幸運を象徴しているんだって。だから、陸にあげる」
「知っていたのか」
「いちおう、息子ですから」
旅立つ人に幸運のお守りを。手渡された綺麗な抜け殻をじっと見つめてから、ごめんと小さく呟いた。
二度とはないチャンス。長年の夢への答えとしては正しくても、それ以外のことに対しては、結局自分は逃げるのだ。家族から、弟から、暁人から、そして聡介すら居ない世界で生きていく。
「そうだ。先生からあれを取ってきてくれと頼まれていたんだ。悪い、書斎に入らせてもらってもかまわないか?」
「別に陸ならフリーパスだけど、何なの」
「机に飾ってある琥珀だ」
「ああ、あの偽物か本物かも怪しい代物ね。何であんなの大切にしてるんだか。ちょうどいいや。俺もこれ片付けるから、気になるなら一緒に行こう」
抜け殻の状態によって分けているらしいケースに蓋をすると、暁人は立ち上がって洋館の方へと歩き出した。行儀は悪いが、そのまま縁側で靴を脱がせてもらい後へと続く。
書斎の大きな机に飾られているのは、成人男性の掌に収まるほどのサイズの「虫入り琥珀」だ。黄色味を帯びた茶色の平たい樹脂化石には、ルーペで覗くと数ミリの甲虫や小蝿、そして美しい気泡の世界が広がっている。
随分と久しぶりになる書斎は、あの日と変わらない姿でそこにあった。暁人がスイッチを入れると、小さな電子音がしてから空調設備が動き始める。
「あった、あった。これでしょう」
暁人が手に取った見覚えのある黒いビロードのケースに、懐かしいく思いながら陸も駆け寄った。
虫入り琥珀は偽物も多いが、金剛石などの鉱石に比べると見分けがつけやすい。学術的な価値がある品ではないだろうが、聡介が大切にしているからにはおそらく本物だ。飴色の美しいタイムカプセルに目を細めてから、陸はすぐ側にある同じ色をじっと見つめる。
「これまでずっと放置だったのに、今さらマンションに置く気になったのかな」
「いや、俺に……くださるそうだ。流石に頂く気はないが、あっちに居る間だけお借りしようと思う」
「え、これを?」
「ああ。先生って、たまに意地が悪いよな」
首を傾げている暁人には、その言葉の意味がいまいち分からないようだ。勇気を出して伸ばした指先が、夏の残照を受けて輝くもうひとつの琥珀色に触れる。
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