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第26話
「ここは先生がくれたかけがえのない場所で、どんなに嫌なことがあっても、この離れがあったから頑張ることが出来た。逃げ場でしかなかった古生物学に色をつけてくれたのも、進むべき道筋を示してくれたのも、全部あの人だから。俺にとって梶先生は、世界そのものだから」
「うん」
「だから、行く。俺が先生の代わりに、先生の見たかった世界を見てくる」
謝罪の言葉は、あえて口にしなかった。未練も思い出も何もかも、ここに置いていこう。
残り少ない光を受けた琥珀の目に、いつだったか夕焼けに透かし見たラムネの瓶が思い出される。橙色の日に照らされて輝く飴色のビー玉。瓶を壊さなけれ手に取ることの出来ないそれは、触れられないからこそ美しいのだ。
「陸のことが、ずっと大好きだった」
目元を撫でていた手に、そっと暁人の手が重ねられる。ひんやりとした指の絡む感触に脳が痺れる。あの日と同じだ。突き放すことも逃げることもできるのに、ただ無抵抗に近づく唇を受け入れる。
「いっぱい傷つけてごめん、傷つける事しかできなくてごめん。陸に……俺を好きになって欲しかった」
違うと横に振ろうとした顔を両手に捕らえられ、もう一度やさしくキスをされる。息苦しさに苦しくなる、こちらを探し求めるような激しさはもうどこにもない、親愛を込めただけのキスだ。
穏やかで優しい、この離れでの思い出。この場所をくれたのは聡介だが、いつもそこに居てくれてのは暁人だった。彼が居るから、嵐の日だって怖くなかった。
けれどいつか、黄金の日々は終わりを迎える。傷つけたかったわけじゃない。聡介への気持ちも、暁人への想いも、そっと飲み込んで沈めておけばいい。美しく得難いきらめきは、いつまでも変わることなくそこにあるだけでいい。
「暁人、幸せになれよ」
幼い子どもにするように、柔らかなくせ毛を撫でて額を合わせる。見つめる先の琥珀色は、聡介にはない暁人だけの色だ。愛しいその目に、目蓋越しにキスを落とす。
「俺は、俺は梶の跡取りだから。だから、陸のことは追わない。追わないし、待たない。父さんの分も自分の居るべき場所で生きていく。でもここは、この離れは陸の場所でもあるから、いつでも帰ってきて。何年経っても、たくさんのことが変わっても、俺はずっとここに居る」
「次に来るときには、おっさんになってるかもな」
「いいよ。だって俺もおっさんだもん」
久しぶりに笑い合ってから、今度は無言でお互いの身体を抱きしめた。何回も触れて、同じベッドで寝起きをしていたというのに、こんなに大きくなっていたのかと改めて気付かされる。
「暁人。先生のこと……頼む」
「大丈夫だよ。俺はあの自由人と違って、母親似のお堅い医大生ですから。ただ、連絡だけはマメにしてやって。面倒くさいけど、子どもみたいな人だからさ」
「わ、かった」
「泣かないで、あの人あれで、やりたい事やりきった人生だと思うよ」
変わらない、変わって欲しくない大切な物をあの場所に閉じ込めて戻ると、残された時間を全て留学の準備に充てる慌ただしい日々を過ごした。
日本を立つ日に見送りに来たのは、同じ研究室のメンバーだけだ。家族にも暁人にもこの日のことは知らせることはなく、ただ聡介が入院している病院の方角に軽く頭を下げて、陸は遠くなっていく故郷に別れを告げた。
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