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第29話
生まれて初めて太平洋を眺めたとき、世界というものはこんなにも広かったのかと幼心に驚いた。凪いだ海の蒼と淡い空の青がぱっきりと二つに分かれて、どこまでもどこまでも続いているように見えた。
この世の果てのような場所で過ごす日々は、全てのものがちっぽけなものだと再認識する時間でもあった。巨大な氷河によってきざまれた大地を歩き、何度も登る朝日と沈む夕陽を眺めた。無限に見えるその景色すら、いつかは太陽が膨張して尽きる有限の世界。
個が無になるような錯覚の中で、丁寧に地層を剥がしながら色々なことを考えた。遠い地に置き去りにした人たちのことを、いつもどこかで想っていた。
しっかりと狙ってから振り回したはずの網は、見事なまでに空振りをした。ジジッと悲鳴をあげて飛び去った蝉に、オマケだとばかりに液体をかけられる。
その正体を知りたくないと、あくまで冷静に取り出したハンドタオルで濡らされた腕のあたりを拭った。大地に固定されたものばかり相手にしている弊害か、年々動くものへの反応速度は鈍くなるばかりだ。
「へったくそ。だから俺がやるって言ったじゃん」
「届かないからやってくれと網を渡してきたのはそっちなんだが?」
「知らねー」
役立たずの大人から虫取り網を取り上げると、子どもは新たなターゲットを見つけるべく細い獣道へと入っていく。山には慣れているのか、服装はきちんと長袖に長ズボンだが、どう見ても小学校低学年だろう見た目に仕方なく後を追う。
「追いかけてくんなよ。でかい大人が居ると虫に逃げられんだろ」
「お前みたいなガキを山で置き去りにできるか。保護者はどうした」
「ここは俺ん家の庭だ。おっさんこそ、なに勝手に入ってきてんだよ」
「え、なっ、お前、あ、暁人の子ども……なのか?」
驚きのあまり出してしまった名前に、木の枝を睨んでいた少年が振り返った。思わず駆け寄ってのぞき込むと、歳のせいか女の子っぽくも見える可愛らしい顔立ちは確かに初めて会った頃の暁人に似ている気がする。
「えと、ちょっと待って、君いくつ?」
「教えるわけねぇだろッ。あっちゃーん、なんか変な人が入り込んでる!」
誰が変な人だと言うより先に、身軽な子どもはひらりと方向転換をして駆け出してしまった。少年の膝下まで伸びた草がかさかさと音をたてて、それに驚いた虫たちが時折り横道に飛び出していく。
「おい待って、走ると危ないぞ」
そう言う自分が木の根につんのめりながら、小さな背中を見失わないように追いかける。派手な音をたてて小さな藪を突っ切ると、突然木々が途切れて開けた場所に出た。短く刈られた青々とした芝生に、所々ある人の手で植えられたらしき低木が花をつけている。
天然の木々の生い茂る山中に、ぽっかりと造られた人工的な空間。適度に手入れをされた敷地を駆けていく子どもの影は、正面玄関のある洋館ではなく裏手へと向かっている。
一瞬怖気付きそうになった足を、なんとか前に動かした。見上げる懐かしい離れの佇まいは、なにひとつ変わっていない。あえて言うなら、以前の持ち主よりも丁寧に庭の手入れがされている。
玄関からではなく裏口から。持ち主だからこそ使える出入り口の方から、子どもの甲高い声とは別の男性の声が聞こえてくる。
「こら、寛人。あっちゃんじゃなくてお父さんだろう。それに山に入るのは、勉強が終わってからの約束だぞ」
「うっせーな。それどころじゃねぇだろ。不審人物だ。俺のことユーカイしようとしたんだぜ、ケーサツに連絡だ」
「はあ?」
「ちょ、違う、違う、誘拐しようなんてしてないだろうが!」
聞き捨てならないセリフに思わず飛び出してしまうと、彼奴だっと指を刺してくる子どもの傍に立つ男性がこちらを見た。
くるりと毛先が巻く天然の栗毛は短く刈られ、半袖のシャツから覗く腕も記憶の中より引き締まっていて逞しい。大人になったつもりでも、二十歳前後の青年というのは精神的にも肉体的にも発展途上だ。その未熟さと精一杯の背伸びが、大人になると馬鹿馬鹿しいくらいによく見える。
「……陸」
一瞬だけ呆けていた暁人の顔が、くしゃりと嬉しそうに崩れて笑った。言葉にならない感情が揺さぶられて、いい歳をして目の奥に痛みが走る。
「お帰り」
ただいまと囁いた声は、吹き抜ける風に乗って夏の空へと登っていった。
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