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第31話

 また週末にねと手を振る寛人が、暗くなってきた夜の山道へと消えていく。  懐中電灯で足元を照らす暁人が、隣を歩く寛人に何事か囁かれてから小突くのが見えた。親子というより歳の離れた兄弟のような様子が、なんとも微笑ましくて少し懐かしい。  ここから本宅の玄関までは五分ほどだ。戻るのに十五分くらいかと見当をつけると、陸はシンクにつけてある食器を片付けようと台所に向かった。  問題なく生活できるようリフォームされた水回りは、何処も衛生的で使いやすい。わざわざ土間を残しているのは、所謂古民家再生的なものだろうか。  一緒に暮らしていた頃は気がつかなかったが、暁人は随分ときっちり整理整頓をする質のようだ。自分のアパートよりずっと片付いたキッチンに感心しつつ食洗機のスイッチを入れたところで、重い玄関ドアが開いてここの主人が帰って来た音がする。 「ただいま、やれやれ騒がしくしてごめんね。本当にわがままなんだから」 「いや。アポ無しで来て、迷惑をかけたのはこっちの方だ。なんだか申し訳ないな」 「結局海老フライ付きカレー食べて、花火もちゃっかりして帰ったんだから、あっちは大満足だよ。あ、出る前にお風呂セットしておいたから、もうお湯溜まってると思うよ。長旅で疲れてるだろうし、俺が布団を敷いてる間に入っちゃってて」 「風呂も使えるのか?」 「水回りは全面的に改築したからね。お風呂とトイレは当時の風情というわけにはいかなくて現代風になっちゃったけど、台所は色々と雰囲気残すよう頑張ったんだ」 「ああ、なんだか凄いなと思っていた」 「あんまり変えたくはなかったんだけどね。まあ、この離れも古いから」  ごゆっくりと台所横にある風呂場に送り出され、少し躊躇ってからお言葉に甘えることにする。昨日はホテルのユニットバスだったから、たっぷりと湯を張った風呂もじつに十年ぶりだ。  懐かしい場所で過ごす時間は、どことなく現実感が薄くふわふわとしている。ぼんやりと思考停止をした頭で身体を洗い、ぬるめの湯に肩まで使って温まった。  少しのぼせそうになってから水のシャワーを浴びて出ると、すぐ上がるから待っててと入れ違いに暁人が風呂に消える。  貸してもらった甚兵衛を着ていると、開け放たれた縁側から入る山の空気が冷たく感じられて気持ちよかった。布団はちゃぶ台を置いていた座敷と、その奥の仏間にひと組ずつ敷かれている。吊り下げられた薄い布は蚊帳だろうか。初めて見る代物に、ぐるりと周囲を一周して観察してしまう。 「はぁ、夏の風呂は暑いなぁ。あ、それ珍しいでしょう。網戸つけると縁側が塞がれちゃうからさ、夏場は愛用してるんだ。はいこれ、陸の分」 「あ、りがとう」  色違いの甚兵衛を身につけた暁人が、手に持っていた瓶を陸に差し出す。懐かしい独特の青いガラス。まだ残っていたのかと手に取ると、しっとりと汗をかいた冷たい感触が伝わってくる。 「これが最後だよ。陸が帰ってきたとき用に取っておいたんだ」 「……そうか」  線香を焚いた縁側で、ラムネを飲みながらぽつりぽつりと当たり障りのない近況報告をした。残っていた花火に暁人が火をつけると、火薬の燃える匂いと音がどこか寂しげに響きわたる。  やがて花火が尽きると、ざっくりと周囲の草が刈られた庭を囲む木々から、虫たちの鳴き声が聞こえ始めた。高く澄んだ空と広大な大地。からりとした海の向こうの土地にあったものとは違う、水の匂いがする空気に包まれる。 「明日は俺、朝から仕事だけど、陸はどうするの」 「研究室の方に顔を出すことになっている。今回は大学からの依頼での一時帰国なんだ。最低三ヶ月くらいはこっちにいる予定だ」 「三ヶ月かぁ。ちょっと中途半端な期間だね。貸せる車も一台あるし、実家に帰らないならいっそ此処から通えば?」 「いや、そんなつもりで来たわけじゃないから」 「七回忌に来てくれたんでしょう。あ、ついでだから、書斎に置きっぱなしの遺品も確認してもらおうかな。価値のあるものがあるのかないのか、俺にはさっぱり分からないからさ」 「それは構わないが、さすがに三ヶ月も厄介になるわけには」 「さっきついでに爺さんにも話しといたから、遠慮しなくていいよ。うわ、そろそろ寝ないとやばいな。あっちが客間だから、陸は奥の仏間を使って。あとは、これが離れの鍵で、こっちは車のキーね。ちゃんと保険かけてある車だから気にせず使って」  はいと言って鍵の束を陸に握らせると、暁人は空の瓶をもって台所へ行ってしまった。煙に巻かれたような気分だが、拒否する理由もなくてとりあえず仏間に移動する。  明日にでもカプセルホテルに移動するつもりだった身には、暁人の申し出はありがたい限りだ。聡介の遺品整理を手伝わせてもらえたなら、ずっとこの地に来ることに怖気付いていた気持ちにも区切りがつくだろう。  何よりまだ、暁人と正面から話が出来ていない。明るい態度で接してくれる寛人が行ってしまってから、我ながら何ともぎこちない態度ばかりだ。  異国の地で一人必死になって頑張って、昔よりもコミュニケーションが出来るようになったと思っていた。それなのに暁人を前にすると、この地に置いてきたはずの昔の自分が顔を出してしまう。 「それじゃあ、おやすみ」  寝る準備を済ませて挨拶をすると、二人揃って白い網の中に潜り込む。柔らかく閉じ込められたような空間が、奇妙に落ち着いて眠気を誘われた。  ずっとずっと昔、二人でひとつのベッドに眠った日々もあった。この離れは、どこにいても彼の匂いと気配がする。暁人が身動いだ気配にどきりとしてから、陸は心地よい眠りにゆっくりと意識を手放した。

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