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第32話
聡介がこの世界から居なくなってからしばらくして、陸はSNSのアカウントをひとつ新たに作った。
誰にでも見られて、誰にも見られていない。なんの紹介も付けずに淡々とあげ続けた渓谷の写真は、此処ではない何処かへ行ってしまった人へのメッセージのつもりだった。
初めて入ったコメントは、日本語での短いひと言だった。『広い世界ですね』と書かれたそれが何故だか心に響いて、『始まりと終わりの場所だから』と返事を書いた。
気まぐれに上げる亡き師への報告書で、ぽつりぽつりと交わされるやり取り。聡介が居なくなっても、世界は何も変わらず時間を積み重ねていく。
そうしていつか大地に埋まった人々の記憶も、見知らぬ何かに発掘されるのだろう。古い記憶も、新しい記憶も、なにもかも等しくそこにあり続けるのだ。
「いや、さすがに薄情なんじゃね」
開口一番そう言い放つ弟に、否定することもできず手の中のアイスコーヒーを無言で吸い上げる。ドリンクと一緒に購入したサンドイッチにかぶりつく佳は、いま二人の母校である大学病院に勤めている。
数年前から定期的に連絡をしてはいたが、今回の帰国を知らせたのは今朝である。薄情と言われても仕方がないが、事前に知らせると家に顔くらいは見せろという展開になりそうで躊躇われたのだ。
「暁人のとこに世話になるなら、家にも飯くらい食いに来いよ。それこそ街中で見かけたらお袋びっくりして倒れるだろう。もう若くないんだからさ」
「若くないって、そんな」
「還暦超えてんだぜ。素直じゃねぇからまた憎まれ口きくだろうけど、あれで兄貴のこと心配してんだから」
「……この歳になって思うんだが、俺の無愛想は母さん譲りなのか?」
「え、今ごろ」
弟と冗談を言って笑い合えるなんて、昔の自分には考えられなかった。五年の差は、幼い子どもには対等とは言い難い。陸にとって佳は、常に面倒を見なければならない、厄介な庇護対象でしかなかった。
お互いに社会人になって話すうち、初めて佳の存在を同じ年頃の兄弟として感じた。どんなに離れていても、二人の間にある絆が切れることはない。歳月が積み重なるほどに、幼い頃とは別の形で自分たちは誰よりも近しくなれるのかもしれない。
「おっと、そろそろ仕事に戻んないと。まあ暫く大学通いなら、こうしてまた飯とか食おうぜ」
「ああ、そうだな。急に悪かったな」
「本当だよ。とりあえずお袋たちには知らせて、また家に来る日は調整しよう。俺的には今夜でもいいじゃんって思うけど、お互いに心の準備とか色々必要だろう」
「……わかった。婆ちゃんの墓参りもしたいしな」
なにを着て行こうとさっそく悩むあたり、確かに時間を開けた方がいい。十年間クリスマスカードを送るしかしなかった息子を、両親はどう思っているのだろうか。
結局、ホームに入ってすぐに亡くなった祖母の件も、その後の老いた両親の面倒も、自分は弟に押しつけて自由を謳歌しているのだ。
「時間があればいつでも来てよ、自分の家なんだからさ。まあ兄貴の場合は、先に片付けるべき問題もあるしなぁ」
院内にある店での昼食にしたので、会計を済ませればそう急ぐこともない。薬剤部への道を並んで歩いていると、佳はさらりと爆弾を投げ込んできた。
「なんのことだ」
「家族より先に会いに行った人間が居るのに、今さらしらばっくれるなって。彼奴、実家の病院とこっち行き来してるからたまに話すけどさ、まあなんて言うか、どんな答えにしろ、きちんと決着つけた方がいいと思うよ」
その為に帰ったんだろうと言外に言われた気がして、思わず視線を泳がせてしまう。
待たないと言っていた暁人。待たないけれど、ここに居ると言ってくれた暁人。自分たちはこの曖昧な距離に、何らかの名前をつけなければならないのだろう。
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