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第34話

「ごめん、ちょっと離して。とりあえずこの格好をどうにかしよう」 「いやだ」 「嫌だって言われても、んッむ」  いきなり押し付けられた冷たく柔らかい感触に、何をされたのか理解できず思考が停止した。硬直している暁人を、陸の濡れた身体が抱きしめてくる。何度も角度を変えて繰り返される、触れるだけのキスに心が震える。 「ごめん」  間近にある黒い目が、雨水のせいか濡れているように見えた。勝手に抱きついてキスをしたかと思ったら、訳の分からない謝罪の言葉。相変わらず、陸は何を考えているのか分からない。それとも、暁人に分からないだけなのだろうか。 「すまない。俺が、俺が怖くなっただけなんだ。こんな日にお前が一人で居るかもしれないのが、俺が嫌だっただけなんだ。今まで十年も放ったらかしにしていたくせに、本当に……勝手だよな」 「陸の中では、俺はいつまで経っても年下の子どもなのかな」  それって永遠の脈なしかと、とくに望みがあったわけでもないのに寂しく思う。息子だから出会えて、息子だからこそ愛されることは難しい。自分たちの関係は、聡介が居なくなっからといって変わることはないのだろう。 「暁人は、いつも我がままで、自分勝手で、先生にはちっとも似ていなくて、それなのにキラキラしていて眩しい。お前は触れることのできない、違う世界の人間だ。そんなお前が俺なんかを頼ってくれるのが嬉しくて、好きだと言ってもらえて嬉しくて、同じものを返せないのに手を離せなかったんだ。苦しめていると分かっていたのに、見ないふりをしてごめん」 「それに関しては、俺もあまり責められないからなぁ」  悲しくて、悔しくて、わざと陸が嫌がるようなことを繰り返していた。暁人が陸をぞんざいに扱う程に、お互いを想いながら距離を崩さない二人が苦しそうにしているのが小気味良かった。  彼の愛した人が赤の他人なら、あそこまで憎んだりはしなかっただろう。血を分けた父親だからこそ、吐くほどに二人が憎かった。仕方がないのだと、割り切ることが出来なかった。  ひとつ言い訳をするなら、最初の浮気には多少まともな理由もあるにはあった。最後の賭けだと始めた同棲で、自分に対して性的に駄目なのだと突き付けられた後、暁人は飲み会で知り合った女性とお付き合いを始めた。  遊びのつもりではなかったその関係は、結局数ヶ月で終わりを迎えたが、暁人はそれから陸と別れることをしないままに何人かと交際を重ねた。自分を決して好きになってくれない恋人よりも、好きになれる人をみつけたかった。  些細な抵抗のつもりだった行為を裏切りと断じられ、陸に憎しみと悲しみを込めた視線を浴びせられとき、暁人が感じたのは彼の理不尽で不可解な嫉妬への憤りと、それを上回る快感だった。  愛は与えないくせに他に目をやることを責める身勝手さが、どんな理由であれ暁人に独占欲じみた感情をみせた傲慢さが、腹立たしくて愛おしかった。穏やかな愛が生めないなら、いっそ憎しみでいいから自分を見て欲しかった。  子どもじみた感情は次第にエスカレートしていき、止めどころが分からないまま超えてはいけない壁まで超えてしまった。結果自分は、お互いの感情に蓋をしていた二人の背中を押してしまったのか。  聡介の身体を蝕む病に診断が下されたとき、彼は自分の死期を悟ったのだろう。置いていくことが分かっている相手に枷をするような行為は、決して褒められたものではないと思う。けれど最後の最後に、夢も愛もすべてやり尽くして逝った男のことを、じつに父らしいと思うのも本当だ。  陸が聡介を忘れることはないだろう。それは暁人もまた同じだ。離れで過ごした少年の日々も、憎み合ったとも言える青春の日々も、積み重なった歳月がいまの二人を作っている。  陸が居なくても変わらず続く毎日の中で、それでも結局手放さなかったのは暁人の意思だ。変わるべきものは拒まず、ただ真っ直ぐに向き合い続けた心がここにあるだけだ。 「陸は、俺には幸せになってほしいの?」  濡れた頬を両手で包みながら尋ねると、ゆっくりと頷かれる。それはきっと、あの嵐の日に暁人を呼んでくれたときからの、陸の変わらない意志なのだ。 「そっか。昔から陸は、俺のお兄ちゃんだったもんね」  お前の子どもかと、寛人を見て喜んでいた陸。美しく保たれた離れに、切なそうな顔を見せていた陸。身勝手で強欲な、どうしようもなく愛おしい人。 「俺は、ずっと待っていたよ。俺宛にはカードひとつすら送ってこない酷い人を、ずっと想って待っていた。ここに居れば必ず、陸が来てくれるって信じていた。俺に幸せになってほしいなら、陸が俺を幸せにして。他の誰かじゃ嫌なんだ。父さんのことを好きな陸のままでいい、俺と一緒にいてください」  目を逸らすことなく告げた言葉に、何度も頷きながら陸の手が暁人の手に重ねられる。 こちらを見る黒い目に滲む水分に唇を寄せると、甘えるように額を擦り付けられる。 「全部整理をつけたつもりだったんだ。だから帰ろうと思えたのに、先生を想う気持ちは絶対に変わらないはずなのに、俺は……俺は……」  暁人に会いたかったと動いた唇に、こちらの目の奥がつんと痛くなる。 「帰りたかった、ずっと。十年もメールひとつ出さなかったんだ。何もかも変わって、お前も人並みに幸せになっていて、そんなことを期待して帰国した。それなのにここの空気は全然変わっていなくて、お前がお帰りなんて言うから」 「うん、だからもう離れたくない、離したくない。それでもいい?」  イエスの代わりにされた口付けは、優しいだけだった先ほどのものとは違っていて、愛おしさに胸が潰れそうだった。

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