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第36話

 この離れでは、時間の感覚が外とは違う気がする。  日が昇る少し前に目を覚ますと、暁人はいつものように軽く身体を伸ばしてから布団を出た。水を飲みに行くついでに仏間を覗くと、ひとつ布団で寝息をたてている陸と寛人の姿が見える。  あっちゃんは朝早くからごそごそするから嫌だと言って陸の方に行く寛人だが、どちらかというと普段は彼が使っている寝具を陸が借りている状態なので文句も言えない。平和そうに眠っている二人を少し見守ってから、暁人は足音を忍ばせて台所へと向かった。  太陽の光が差し出したのか、鳥たちが朝の挨拶を交わすように鳴き始めている。高く澄んだ空と雲の形に、今日も気持ちよく晴れそうだと見当をつけた。日中はまだ暑さが残る時もあるが、秋を迎えた朝の空気は冷んやりとして心地よい。  服を着替えて外に出ると、ストレッチをしてからランニングに向かう。暑い季節は涼しい時間に軽く流す程度だが、毎朝の運動は学生時代からの習慣だ。研修医時代は忙しすぎて途絶えることも多かったが、朝に走ると一日脳がスッキリする。  三十分ほど走って戻ってくると、シャワーを浴びてから朝食の準備だ。祖父に育てられたせいか和食派の暁人が作るのは、ご飯と味噌汁にお菜がつくシンプルなものだ。今朝は魚の気分だなと、ししゃものみりん干しを炙って卵焼きと作り置きの人参の和物を添えることにする。 「あっちゃん、おはよぉ。朝ごはん何?」  すっかり周囲が明るなり味噌汁のいい香りが漂いだすと、こちらもまた寝起きはいい寛人が台所に顔を出す。 「おはよう。起きるなりそれかよ。今朝はお前の苦手なお魚です」 「げっ、嫌がらせかよ。俺がいるときはハムエッグにしてって言ってるだろ!」 「うるさい、陸が魚好きなんだよ。あと少しで外国暮らしの人に譲ってやれ」 「ちぇ、エコ贔屓じゃん。陸くん起きて、朝ご飯だよ」  ぶつくさ言いながらも陸に懐いている寛人が、梶家の人間とは反対に朝は弱い陸をお越しにかかる。あと五分と弱々しく聞こえてくる定番の台詞に、炊き上がったご飯をよそいながら笑みが溢れた。  これまでと同じように過ぎたはずの三ヶ月。すっかり住居代わりにしている離れから毎日仕事に行って、休みの日には寛人と勉強を教えたりしながら過ごして、季節は夏から秋へと移ろっていく。  ある夏の日に陸がひょっこりと現れたことで、暁人の日常はまるで違うものになった。同じことを繰り返す日々が、何気ないやり取りが、陸が自分の手を取ってくれたことが、嬉しくて幸せで夢のようだった。 「おはよう、ご飯できたけど食べられそう?」 「ん、ああ、顔洗ってくる」 「しゃきっとしろー」 「ちょ、痛い、痛い」  ぱしぱしと寛人に叩かれて布団から這い出てきた陸が、ふらつきながら洗面所の方に歩いていく。 「お、ソーセージがある。あっちゃん気が効くじゃん」 「サービス料金あとでもらうな」  ぼんやりとした陸が戻ってくると、三人席についたところで頂きますと手を合わせる。 「あ、前にも言ったけど今日は送別会があるから、帰りは少し遅くなる」 「うん。今夜は宿直じゃないし、お酒飲むなら迎えに行こうか?」 「最近昔より弱くなったからな。あまり飲まないつもりだが、お願いするか」 「陸くん、ジジくせぇぞ」 「ほっとけ」  幸せな毎日は始めから期限つきで、夜明けは日に日に遅くなっている。来月が来たら、もう此処に陸はいない。  残された時間を大切にしようと思いながらも、幸せの中に寂しさが滲むのを禁じ得なかった。  肩を叩かれて浅い眠りから覚めると、研究室の後輩が笑っている顔が見えた。  後輩といっても、現役の大学院生に顔見知りはいない。陸が研究室にいた頃の学生も何人か残ってはいるが全員男だ。ふわふわした雰囲気の女性はこの分野では少しめずらしくて、覚えやすくて仲良くなった。 「鹿嶋さん、お迎えが来てますよ。しっかりしてください」 「すみません。ちょっと陸、飲まないんじゃなかったの」 「ん……なんだ、暁人か」 「なんだ暁人かじゃないよ。連絡ないからこっちから来ちゃった、もう帰ろう」 「ごめんなさい。今日の鹿嶋さん、なんだからすごくご機嫌で飲ませ過ぎちゃいました」 「ああ、医者なので大丈夫です。それじゃあ、お世話さまでした」  座敷の畳と仲良くしていた身体が、ひょいと力強い手で起こされる。流石にお姫様抱っことはいかないが、そのまま肩を貸してくれる暁人の髪を、くしゃくしゃと手で混ぜてみる。 「暁人、もう少し髪のばせよ。クルクルしてかわいいだろう」 「嫌だよ、この酔っ払い。ちょっと、近い近い」 「なんだ、俺が近づくとイヤなのか?」 「違うってば、とにかくもう行くよ」  まだ飲むらしい仲間たちに挨拶をして、ついでに投げキッスもしてからまた月曜にと手を振る。俺の知ってる陸と違うと呟かれたが、さすがに十年もいれば彼方の水にも染まるというものだ。 「暁人にもしてやろうか。ん」 「……するなら帰ってからにして」  ふざけて顔を近づけると、少し乱暴に車の助手席に放り込まれてしまう。酷いなぁと酔っ払いの頭で思っていると、そのまま覆いかぶさってきた暁人に舌を絡められた。 「っふ、ん」 「あんまり隙ばっかり見せないでよね」  心地よい体温に脱力していると、最後に眉間にキスをしてから暁人が離れていってしまう。暦的にはまだ秋の初めだが、北国の夜はすでに肌寒い。寂しいなと酔った頭で考えていると、運転席に座った暁人がエンジンをかける音がする。 「暁人」 「なに?」 「セックスしようか」  あからさまな言葉で言ってやると、シートベルトを付けようとしていた暁人の動きが止まる。そのまま、沈黙がしばらく続いた。動かない相手に痺れを切らしたのは、誘いをかけた此方が先だ。 「あーきーと、しないのか?」 「いや、ちょっと酔っ払いは黙ってなよ。ほらシートベルトして」 「俺はしたい」  日常に戻ろうとする暁人にさらに言葉を重ねると、ちょうど此方に覆いかぶさりかけていた身体が硬直したのが分かった。  手を伸ばしてそのまま抱きしめると、びくりと動く肩に額を擦り付ける。鼻腔に感じる暁人の体臭が愛おしくて、くんと鼻を鳴らしてしまう。 「このままカナダに戻りたくない。けど、暁人が嫌ならしない」  二人の肉体的な接触は、あの嵐の日から回数だけは重ねている。けれどそれは、挿入を伴わない行為までで止まっていて、一度も最後まで至ったことはない。  勿論それだけでも満たされたし、優しい行為と穏やかな毎日はいつも幸せだった。同性間のセックスは、触れ合いの延長で行えるほど肉体的にも精神的にも簡単ではない。暁人が望まないのなら、陸も強要するつもりはなかった。 「でも、寂しい」 「陸、やめて」 「お前のこと、全部知ってから戻りたい」  俯いてしまった暁人が、どんな顔をしているのか分からなくて少し怖い。アルコールの力を借りたから、こんな事が言えるのだ。微かに震えている手に気づかれたくなくて、ぎゅっと拳を握りしめる。 「……ごめん、忘れてくれ」 「だからッ」  いきなり起き上がった暁人が、のし掛かるようにして抱きついてくる。そのままガクンと座席シートが倒されて、突然の衝撃に驚くまもなく噛み付くようなキスをされる。 「あ、っん、んン」  シャツ越しに上半身を撫で回す手に、ぞくぞくと性感が刺激されて震えてしまう。もっと触って欲しいと身体を擦りつけると、舌を噛まれて痛みが走った。 「ッ……あ、ふっ」 「っ、帰ろう」  耐えるような暁人の顔が、可愛いのに色っぽくて腰にきた。自分はこんなに変態だったかなと、ほんの少し不安になる。  再び座席を戻されて、ハンドルに顔を伏せた暁人が十数え終わると、車はゆっくりと離れに向けて出発した。

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