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第40話

 朝目が覚めると、陸の顔がすぐ目の前にあって思わず後ずさってしまった。  どきどきと年甲斐もなく煩い心臓が鎮まるのを待って、気持ち良さそうに眠っている人の側ににじり寄る。そうだった。昨日ついに彼とそうなって、恥ずかしがる陸と一緒に風呂に入って、大人二人では少し手狭な布団に潜り込んだのだ。  むにゅっと形の良い鼻をつまんでやると、小さく唸った陸が眉間にしわを寄せる。明け方の彼は、いくら目覚ましが鳴っても目を覚さないほど朝に弱い。  綺麗に整った顔を誰にも邪魔されることなく眺めながら、じわりと滲んでくる幸せを噛み締める。  一緒に暮らしていた頃も、よくこうして彼の顔を飽きることなく見つめていた。陸が寝ている時にしか、穏やかな気持ちで接することができなかった。 『俺も陸が好きだから』  遠い昔、必死の思いで告白した少年の願いは叶ったのだろか。いや、叶ったとか、報われたとか、それはおかしいのかもしれない。  陸がこの手を取らなくても、暁人の気持ちは変わらない。変えられなかったから、こうしてこの思い出の場所を、大切に慈しんできたのだ。彼が世界のどこかで幸せでいてくれるなら、それだけで良いと思うことができたのだ。 「ん、ンん……きと?」 「あれ珍しい、もう目が覚めたの」  気怠そうに何度か瞬きをすると、陸がこちらにすり寄ってくる。そのまま寝息を立て始める年上の人の幼い仕草に、起きようかと思っていたのをやめて暁人も布団の中に戻った。  目が覚めたら覚めたで、陸は身体が痛むことだろう。今日くらい甘くだらけた一日にしても、きっとバチは当たらない。  陸がカナダに戻ってしまうと、離れは急に静かになった。  一緒に暮らしていたときも仕事ですれ違い気味ではあったし、物静かな陸がうるさかったわけでもない。 ただそこに居るべき人が居ない。それだけで、秋から冬に移り変るこの季節が、いつもより一層寂しく感じられるだけだ。 「あっちゃん、例のアカウントに新しい写真上がってるよ」 「おー、つうかお前は勉強の時間だろうが。勝手にネットいじるな」 「いいじゃん」  規制はかけているが、好き勝手に人のパソコンを弄る寛人にはお小言も右から左だ。生意気盛りの息子の傍若無人ぶりを半分諦めながら、SNSに上げられたどこまでも青い空と大渓谷の織りなす風景画像を見つめる。 「この間の星空も凄かったけど、大陸って本当に何もかもが大きいよなぁ」  数日おきに上げられる写真はどれも、日本では見ることの出来ない雄大さに満ちている。文字どおり降ってきそうな星空だぞと、縁側から見える日本の夜空を見上げながらあの人も言っていた。  ようやく想いが通じ合ったつれない人は、未練がましい暁人とは反対に、あっさりと化石たちの待つ谷に戻ってしまった。  そういう意味で彼は専門バカの世間知らずで、次はいつ帰国するだとか、会えなくなるのが寂しいだとか、そんな気の利いた台詞は一切無かった。暁人とてそんな別人のような陸を期待していたわけではないし、以前とは違ってアプリを介してのやり取りもしようと約束も取り付けた、陸の性格を考えれば、それで充分と言えるだろう。  しかしいくら頭でそう理解しても、短い蜜月を知ってしまった心が寂しいと泣くのも止められない。 「しばらく更新なかったから心配してたけど、元気そうだね」  陸が居る大陸を垣間見せてくれる見知らぬアカウントは、初めて出会ったときから暁人の癒しだ。愛想のかけらもない内容のせいか話かけているのは暁人だけの状態だが、細々としたやり取りはもう何年も続いている。 「ていうかさ、これ陸くんのアカウントだろ」 「え」 「知ってて見てたんじゃないの?」 「いや、え、馬鹿、そんな偶然あるわけないだろう」 「ちょっと前に、ここの山で撮った蝉の写真載せてたぜ。不味いと思ったのかすぐ消してたけど。気づいてなかったとかまじで笑えるし」 「うるせッ」  そんな馬鹿なと否定したいのに、妙に納得できてしまう部分がありまくるから困る。逃げようとする寛人にヘッドロックをかけながら、まったく気づかずに様々なメッセージを送っていた自分が間抜けすぎて笑えない。 「ぷはっ、恥ずかしいからって児童虐待はいけないと思いまーす。でもあっちゃんも相当抜けてるけど、陸くんも負けてねぇからなぁ。その分だと、クリスマスの用意もまだ何もしてないだろう」 「なんだそれ」 「ほらやっぱり。クリスマスの直前に帰って来て、来年からこっちの大学で非常勤講師するって言ってたよ。陸くんここに住む気満々だったけど、なんであっちゃんが知らないわけ?」 「な、なっんでお前ばっかり、そんなこと知ってるんだ」 「いつ帰るのって聞いたら、普通に教えてくれたけど。あのさ、陸くんがああなんだから、そこはあっちゃんからガンガンに押していかないと。察するとかあの人には無理な芸当だよ。まあ、今回は利発で気の利く寛人くんのお陰で助かったわけだから、クリスマスプレゼントとお年玉に期待してるね、お父さん」 「都合の良いときだけお父さん言うなッ」  ふざけながら逃亡する寛人に拳を振り上げるフリをしながら、顔から火を吹きそうな恥ずかしさをなんとか押さえ込む。  たしかに自分は、あの常人とはややずれた思考回路を持つ人と対話をしなさすぎたのかもしれない。陸のような人には、もっと素直に単純に、それこそ子どものような心でぶつける方が伝わるものがあるのだろう。  とりあえずいま聞いたばかりの件の詳細を確かめようと、カナダとの時差を考えてからパソコンの通話アプリを起動させることにした。

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