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最終話
梶家本宅の玄関から離れに続く道は、緩い登り坂になっている。
この道を歩いていると、夏にはよくチラチラと動く白い虫取り網が見えた。坂を上がってきた陸に気がつくと、日焼けをした子どもが元気よく手を振って、持参した氷菓子に嬉しそうに駆け寄ってきた。
暁人との虫取りが印象深いからか、離れでの記憶は入道雲の湧く夏が一番色濃く残っている。我先にと鳴く虫の声と草いきれに隔離された秘密基地。遠い記憶が生きている場所だ。
「暁人、寒い。なんでこっちもセントラルヒーティングにしないんだ」
夏とは正反対に凍てつく空気の中を離れまで移動すると、山中の一軒家故の冷え込みに二人してぶるぶると震えながらエアコンのスイッチをつける。
もともと夏用の別宅は、北陸の寒さを凌ぐのには向いていない造りだ。いつもは冬になると全館暖房の本宅で過ごしていたと暁人も言っていたのが分かると、床から忍び寄る冷気に納得する。
クリスマスの少し前に帰国した陸を、暁人は空港まで迎えに来てくれた。年末年始は彼も忙しいはずだが、これまで待つ相手も居ないからとクリスマス返上だったことが効いたのか、暁人の休暇申請はすんなりと通してもらえたらしい。
大学に顔を見せてから地元に帰ると、夜には本宅でちょっとした夕食会が準備されていた。かなり高齢のはずだが未だかくしゃとした暁人の祖父に、寛人とその親兄弟。緊張もしたが、明るい子どもたちの笑い声に助けられ、終始和やかな雰囲気で過ごすことができた。
暁人が自分たちの関係を全て打ち明けていて、きちんと認められた上での招待だったのには心臓が止まりかけた。そして同時に、受け入れてくれた彼の家族にひたすら頭が下がった。
すぐにとはいかなくても、自分も家族に対して自分のパートナーだと暁人を紹介したいと思う。叶うならこの先もずっと、一緒に居たいと願っているのは陸も同じだ。
「コーヒーはさっき飲んだし、温かいお茶でも淹れようか」
「お願いする」
強に設定されたエアコンは、まだ本体が温まらないのか準備運動中のようだ。座敷に置かれた炬燵にもぐりの混むと、冷えていた手足の先がむずむずと痒くなる。
「陸がいたカナダの方が寒いでしょう。はい、お茶。蜜柑あるけどたべる?」
「あっちは石造りの全館暖房だからな。光熱費がめちゃくちゃ高いから、使いたい放題って訳にはいかないのが辛いけど。暁人、手が震えて蜜柑が剥けない」
「もー、ほら貸して。地元の寒さにへばっててどうするの」
「日本の家屋って寒いんだよ」
お茶の入った湯飲みで手を温めながら、向かいの席に座った暁人が蜜柑の皮を剥いていく作業をみつめる。外科医である暁人の手つきは、化石を扱うときの陸とは別の意味で繊細で丁寧だ。
「秋に戻るときにちゃんと言っておいてくれたら、もう少し準備できたんだよ」
「それは、だからまだ不確定な点が多かったから、わざわざ言う必要はないかなって思ったんだ」
「寛人には言ってた」
これで何度目かという話をまた蒸し返され、こちらの分が悪いので黙り込む。暁人は陸が思っていたよりもちょっと執着心が強く、そしてかなり執念深い。
そんな彼だからこそ十年もほぼ音信不通の人間を待ってくれたのだろうが、これからはもう少し積極的に話し合いをしようと反省した。
「休みは明日までだっけ」
「うん。代わりに年末年始は気張らないと。うちの病院もだけど、大学病院の方も人手不足だから。陸はわりとのんびり出来る感じかな」
「まあ冬の間はな。大学が長期休暇に入る辺りで、春にはモンゴルに行く予定だ」
「モンゴルか、また広そうなところだなぁ」
きれいな橙色一色になった蜜柑の房が、はいと指で摘んで差し出される。なんだか恥ずかしいなとは思ったが、他に誰かいるわけでもないかと思い直して口を開けた。
「暁人、怒らないのか」
甘酸っぱい果実を咀嚼してから恐る恐る尋ねると、なんでと同じ蜜柑を食べながら暁人が首を傾げる。
一緒に暮らすとは言っても、総合病院の医師として忙しくする暁人と、何ヶ月も海外に行くことも多い陸とでは、共に過ごせる時間は限られているだろう。
それでも、どちらかが自分の道を捨てるという選択は出来ない。寛人が居るとはいえ、暁人にとって本当にこれでよかったのかという悩みが消えることはない。
「明日目を覚ましたらさ、目の前には陸がいて一日中一緒にいられる。お互いに仕事のときだって、会えるときは会えるし陸の気配も感じられる。陸がモンゴルに居るときも、心配したり帰りを待つことができる。それが凄いことだって分かったんだ。だから、俺は幸せだよ」
離れ離れの時間の方が多かったとしても、陸が帰るのは暁人の元で、暁人が帰るのも陸の側だ。すれ違って傷つけ合った年月、離れ離れのままの十年、思い返せばそれすらも愛おしい。この先にある時間をまた二人で歩いていけるのが、ただ嬉しい。
「そうだな。俺も、幸せだ」
すっかり温まった足を暁人の足に絡めると、同じようにやり返される。今夜はこんなに寒いのだから、べたべたにくっつき合って眠るとしよう。思うとそう、冬の離れの冷たさも悪くはない。
「……暁人が好きだ」
何度も好きだと繰り返す暁人に、いつも沈黙しか返せなかった。どうしても言えなかったそのひと言が、ごく自然に陸の口からこぼれ落ちる。
うんと答えた暁人の手が、こちらの手を柔らかく握りしめてくれる。見つめる先の琥珀色の瞳が、永遠を感じさせる愛おしい人。
「俺も陸が好きだから」
あの日と同じ言葉を返されて、握り合った手が温かくて、嬉しくて、ゆるゆると幸せに脳がとろけた。
触れることのできない甘い瓶の中に、手を取りあって二人で沈んでいこう。
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