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かり、と小さく音を立てて歯を立てられ、右の薬指に歯型に薄く血が滲んだ。
ちょっとの痛みの後にやってくるのは、急な羞恥。
指から口が遠ざかるものの先生の唾液が糸を引く。それがなんとも生々しくて。
顔に熱が一気に集中したかと思えば怠慢教師は俺の手を離して顔を再度覗き込んでくる。
「おまえ、可愛いな」
「は……!?」
褒め言葉と受け取れるか微妙なことを言われて後ずさりをしようとすると離された手をもう一度掴まれた。
掴む力は強く、抵抗できない。
こんなのまるで─────
「俺から離れるなよ」
「……っ!」
「なんつって。今のおまえから目え離したらすぐにでも飛び降りちまうだろ」
こんなのまるで、離れるなと言われているみたいだと思った矢先に。
俺が恋愛初心者だからと言ってからかわれている。
なんだか悔しい。
このひとのことだからどうせ経験豊富なのだろう。だからと言って俺をからかうのはおかしい。絶対に。
俺は……とんでもないひとに目をつけられてしまったのかもしれない……
「本当におまえには死んで欲しくねえんだよ。俺が担任になったからにはおまえは俺の大事な生徒だ。地獄まで行って追いかけてやるよ」
「なんで俺が地獄に行くことが前提なんですか」
「はっ、ものの喩えってやつだ。おまえみたいないい子ちゃんは地獄には行かないだろうけどな」
あぐらをかき頬杖をついた先生が膝立ちと正座の中間のような体勢をしている俺を下から見上げてくる。
尚、俺の右手は先生に捕らえられたまま。
いい子ちゃん、ね……
「いい子ちゃんの基準緩すぎ」
自殺をしようとした俺は優等生でもいい子ちゃんでもないというのに。
思わず、笑ってしまった。
すると、俺の笑っている顔を見た先生がぽかんとしたように見つめてきたかと思えば、ふっと顔を逸らした。
逸らされた横顔は、髪に隠れてよく見えない。
「俺、おまえのこと狙ってるんだぞ?」
「そうみたいですね」
「だから不意打ちでそんな顔するな。……困る」
……困る?
さっきから照れるだの困るだの、よく感情を口に出すひとだな。
表情がいちいち変わるところも、俺とは正反対だ。
「とりあえず一旦教室に戻れ。今から行っても授業間に合うだろうし。もし先生になにか言われたら俺に雑用頼まれたってことにしとけ」
「……はぁ」
「で、放課後数学準備室に来い。そこで色々俺のこととか知ってもらう。あ、これ強制な」
「部活休みなんでいいですけど……あの」
一旦言葉を切ってみる。
「なんでずっとドアに向かって話してるんですか……」
「……」
顔を逸らされたままそう言われているから、どう見ても屋上の入口の壁に向かって話しかけているようにしか見えない。
それを先生に言うと、ギギギギと音がつきそうなくらい不自然に俺の方を向いた。
顔だけを動かして。
「変な顔してないか? ちゃんとかっこいい?」
「あ、変ではないですけど」
「よし」
「顔うっすら赤いですよ」
「馬鹿野郎それを変な顔って言うんだよ!」
またブォンと効果音がつく勢いで顔を逸らされてしまった。
あと、ゴキって聞こえたけどこのひと首やっただろ。
……変なひと……
「あ、あの……俺、教室行きますね……」
「是非そうしてくれ。俺の顔は見るなよ。あと死ぬなよ」
「頑張ります」
顔を見るなと言われたので言う通り先生のことは見ずに下の階に通じる階段まで向かった。
屋上の扉を閉め、階段を降りようとしたときに扉の向こう側から声が聞こえた。
いや、別にすぐに階段を降りようと思っていたし聞くつもりは毛頭なかったのだけれど。聞こえてしまったのだ。
「抱きてえ……」
「……」
教師として、いや。人間として慕うには、あまりにも足りなさすぎるのに。
どうしてか────幼い頃の記憶と、重なった。
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