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第6話
◇
楠葉は早い出勤で、その主な役割は麦也の相手らしかった。彼はごつごつとしたシルバーチェーンを持ってきて、レイモンドの形見を通すと麦也の首に掛けた。
先生のほうでは訪問者があった。レイモンドより年若い印象で、意外にも明朗な彼より軽率な感じのある、大雑把な、まだ少年といったくらいの男だった。先生と2人で籠ったり2時間経つが、嬌声が麦也たちのいるキッチンルームまで最初の30分くらいから届いていた。それを耳にしながら楠葉はいやに時間がかかり、工程のある料理をして、その合間、合間に麦也と話をした。麦也は皿洗いを手伝ったり根菜の皮を剥いた。楠葉との調理は楽しかった。彼は手際が良く、自炊に慣れている程度というよりは熟練工といった風格があった。互いにあまり自分の素性を多く語らなかったが、楠葉のほうでは亡きレイモンドから麦也の話を聞いているようなところがあった。
作業が一段落し、鍋をかき混ぜる美しい横顔を麦也は見つめた。耳殻は形が良く、狭い耳朶にはピアスの穴が空いていた。背はそう高くはなかったが麦也よりは高く、均整のとれた肉付きで腰が細く脚は長かった。無地の衣料量販店の安いシャツでも様になっていたがシルバーアクセサリーのチェーンを持っていたりピアスの痕があるところからすると洒落者のようだった。楠葉はぼんやりしている麦也にパイナップルの残りを出した。凍らされている。これは今作っている豚の角煮の材料だったものだ。何か催し物でもあるらしかった。鍋は弱火で加熱されたまま楠葉はエプロンを外しキッチンチェアに着いた。しかし馬鈴薯を茹でていた鍋が沸騰し、休む間もなく立ち上がる。
「代わりましょうか」
材料からいって、ポテトサラダを作るらしかった。本格的なものを作ったことはなかったが蒸したイモを潰しマヨネーズと和えることまでは知っている。
「いいや…いい」
「そうですか?何でも言ってください。出来そうなことなら手伝います」
「すでに手伝わせて悪かったが…これは仕事じゃない」
麦也はよく意味が分からなかった。楠葉は気拙げに顔を逸らした。それから機嫌を窺うように半分に切られた皮付きのリンゴを差し出す。
「あ…いただきます」
「よく洗ったから皮も食べられるが、嫌なら剥く」
「このままでいただきます」
赤黒い皮と黄みの強く密度のある繊維が甘酸っぱそうだった。齧ろうとする直前、叫び声が聞こえた。楠葉は麦也を押し除け、突き飛ばす勢いで先生の部屋に駆け込んだ。麦也はコンロの火を止めてから楠葉を追った。部屋のドアは開け放たれ、新しいマットレスには鼻血を垂らした先生が楠葉に庇われていた。腕を振り上げている訪問者が殴ったらしかった。麦也からは背中しか見えなかった。上半身は裸で、中肉中背といったところだった。腰部脇に小さなテキストの刺青が入っている。
「退けよ」
状況からして怒っているものと思われたが、その口調は落ち着いているようだった。
「こういうのは困る」
楠葉は訪問者のほうを向くこともなく、先生の鼻にティッシュを当てていた。
「知るかよ。困んならそいつに言え、そのカマキリ男によ」
若い男は愉快げに笑っていた。先生は鼻を押さえられながら麦也に気付いた。
「あっちに行っていなさい」
先生は鼻に当てられたティッシュを赤くしながらいくらか緊張感を持って、部屋を覗き込む麦也に言った。すると若い男は振り上げた腕を下ろして振り返った。吊り目と八重歯が特徴的で、脱色の後染めたらしき青みを帯びた不自然な黒髪で、毛先は傷みきり色が抜け、青にもなりきれず濁った緑を帯びていた。今風の10代か、もしくは遊び歩いている大学生にありがちな風采だった。彼はポチを見ると鼻で鳴らして嘲り、相手にする価値もないとばかりに顔を逸らした。
「新しい非常食かよ。乾パンの賞味期限は長くて5年だ」
嫌味を通り越し、煽った喋り方で若い男は室内を練り歩きはじめる。楠葉は鋭い目付きでその男を追っていた。
「稚児 趣味野郎がよぉ!」
男は軽薄に笑っていたが、いきなりといっていいほど脈絡もなく怒鳴った。そして床を大きく踏み付けながらベッドに近寄った。
「ポチ!あっちに行っていなさい!」
先生が叫び、楠葉が蹲る身体を覆う。
「いけません!いけません!」
麦也は若い男に背後から絡み付いていた。
「いけません!人を殴っては、相手だけでなく、貴方の手も痛めてしまうんですよ。そんなことはやめてください、僕も祈りますから…」
「ハァ?なんだこいつ」
若い男は先生に向かうのはやめたが、振り上げられた拳は麦也を打った。
「なぁ、ボクは別に、お前を殴っても痛くねぇんだけど?なぁ、説明しろよ。ボクが痛くないなら殴っていいんだろ?おい、殴らせろや!」
床に転げて怯んだ麦也を若い男は追撃した。
「ポチ!」
「どうぞ、殴ってください。僕は貴方を加害しません。怒りません。抵抗もしません」
麦也は乱暴を働く来訪者を前に祈りはじめた。
「自然は力によって営まれてきました。人間は暴力によって決着してきました。この世に法はありますが、それは人の心と切り離さなければ成立しません。貴方の心に寄り添えるのが暴力でしかないのなら、僕は暴力にしか頼れない貴方の心に祈ります」
男は不機嫌そうに眉根を寄せていた。
「気違いの保護団体でもはじめたのか?とうとう訳のわかってないやつにまで手ェ出したのか、とんでもねぇな」
「ポチ、あっちに行っていなさい。お願いだから。お願いだからポチ…」
ベッドの上にいる先生は動こうとして楠葉に制されてしまう。麦也は首を振った。
「この人に寄り添います。この人には救いが必要です。暴力にしか頼れないのは孤独です!」
「お前にボクの何が分かるってんだよ、今会ったばっかだろ。サイキッカーか?」
「貴方は、僕の新しいお父さんに似ています」
男は不機嫌げな顔に嫌悪を浮かべた。
「きめぇんだよ!」
新しい父親と同じく、彼は胸ぐらを掴んで重い殴打を喰らわせた。
「ポチ!あっちに行っていなさい!ポチ!おれのポチ!」
引き留める楠葉のことがもう見えてもいないらしき先生は取り乱し、ベッドを這って麦也の元に駆けてきた。
「誰がてめぇの父親だ!」
大声が爆ぜる。怒気を孕んでいた。先生は殴られた麦也を抱き寄せ、男から庇おうとする。
「先生、僕は大丈夫です。先生…」
「あっちに行っていなさい。おまえには関係のないことだから。ポチ、おまえに何かあったらおれはもう生きていけないよ、ポチ…」
男がふたたび殴りかかろうとして間に楠葉が割って入った。
「ワケ分かんねぇ」
「帰ってくれないかい、来てもらって悪いけれど…」
麦也は「いけません!」と口を挟んだ。
「きっと悲しい人なんです。きっとその手が痛んでいるはずなんです。祈りますから、あの方が人を殴らないよう、人を殴った罪を許されるよう…」
「誰に祈るんだ?司法か?警察か?」
男はいくらか機嫌を取り戻し、嘲笑していた。先生は麦也の殴られた箇所を手の甲で押さえた。悲しそうな表情をされると麦也は目を合わせられなくなってしまう。
「くだらねぇな。司法と警察にでも祈っとけよ。え?祈るって何に祈るんだ?祈る前に殴り殺してやるよ、おら、来いよ」
「よせ」
楠葉が静かに宥めた。受けて立とうとする麦也を先生は抱擁で押さえる。
「精神論ばっかうぜぇな、気違い。何に祈るんだよ?そいつは飯食わしてくれんのか?金くれんのかよ?え?なぁ、気違い!便所になってくれんのか?電気通して水道通るようになんのかよ。税金払ってくれんのか?精神論ってのはタダでいいねぇ?なぁ、気違い先生よぉ」
若い男は楠葉を振り切り先生に庇われる麦也に歩み寄った。
「負け惜しみだろ、てめぇのは。新しい親父に家賃入れてもらえなかったか?ありがちな話だな。てめぇのは負け惜しみだな、マウントだ、マウント。周りを見下してんだな、祈る祈らない、許す許さない。てめぇが一番ゴミってことに気付かないでよくもそんな高尚な能書き垂れられたもんだな!結局は周りの奴等をザコだとでも思ってんだろ。よくいる有象無象のマウンティング野郎と変わらねぇな……ゴミがよぉ!てめぇは!俗物だ」
若い男はゲラゲラと笑った。暴言を吐くことに快楽を覚えているらしかった。
「いいか、何に祈ったか知らねぇが、てめぇが生きてんのは祈る祈らない許す許さないでできた社会じゃねぇ!気違いに言っても分からねぇか、気違いこそ祈る祈らない許す許さないの世界で生きてるんだからな」
室内にふたたび哄笑が響いた。楠葉は溜息を吐く。
「何に祈ったんだよ!あ?言えよ、ゴミ!てめぇも親父と母親 がパコって生まれた精子フィギュアのクセによぉ!ゴム買う金も無かったのか?え?納税はしてたのか?えぇ?なぁ、何に祈ったかって訊いてんだよ。税務署に祈ってくれ!税務署に!なぁ、何に祈ったんだ?何に祈ったんだ?」
男は激しく興奮し、叫び、喚き散らした。麦也の口は冷たく薄い掌で塞がれていた。
「中身はねぇのに演説だけはお得意だな!」
容赦のない腕が先生を薙ぎ倒し、その上に馬乗りになった。
「先生…」
「カエリ、ポチを連れて行って、お願いだから。お願いだから…」
家主に頼まれると雇われただけの楠葉カエリは一瞬の躊躇いをみせたが麦也を連れて行こうとした。
「先生のお傍にいます」
「ポチ、あっちに行っていて」
「先生のお傍にいます。先生のお傍ほど安全な場所はありません」
床に叩き付けられた手を麦也は拾って指を絡めた。
「気違いには気違いがお似合いだな!どうせてめぇ等みたいな有象無象のつまらない責任転嫁野郎どもは、自分 等が正常でこの世が狂っとるとでも思ってんだろ、貧乏人のゴミがよぉ。納税してんのか、あ?この世は狂っとると、本気で思ってるのか?この世は金だ、社会にマウントとるならなぁ、てめぇは1千万稼いでやっと文句が言えんだよ、ゴミがよぉ!なぁ、それで世間様を裏切って何に祈るんだよ?あ?選挙も行かねぇ、納税もしねぇ、一人前にパコってガキは作るが育てねぇ、ゴミがよぉ!」
男はゲラゲラ笑いながら先生を犯した。レイモンドや他の者たちとは上擦った艶やかな声を漏らしていた先生は、苦しげな呻き声を上げていた。麦也は冷たい手を両手で包む。すると先生の手も麦也の指を握った。楠葉も数歩離れたところで雇主が辱められる様を虚ろに眺める。
「ぁ…っあっ、あ…」
「ガバまん!もっと、締めろ!」
男は先生の首を締めた。麦也と繋がっていないほうの手も首を圧迫する腕に抵抗を示さなかった。むしろ抵抗しそうになっている肉体の反射に抗おうとさえしていた。
「ぁ…っぐ、ぅ…っ!」
「気合い入れて締めろ、気合い入れてよぉ…!」
暴力的な抽送が室内に乾いた音を立てる。
「あ…ぁっ、ァァ…っ、ぅ、ぐ、…」
結合部の具合に満足したらしく先生の首から腕が離れた。しかし男性器に貫かれている下腹部を潰すように押した。先生は背筋を反らし、手形の浮く首を晒して小刻みに震えた。
「ちんぽゴリッゴリになってんな?なぁ、どうだよ、ちんぽの裏側ズボられてイイかよ…」
「あ…あっあ…!」
「他のやつにはあんあんふんふん鳴くらしいじゃないかよ?」
勢いのある前後運動が止まり、一打一打確実に穿つ動きに変わる。交合が深まるたびに先生の芯を持ったものから蜜がとろとろと滴った。
「なぁ?」
「あっ、ぅ…」
「なぁ?」
「ンっ、く、ぅ、」
麦也の指の中で冷たく湿った指は緩んだり、強く絡まったりした。楠葉は長い睫毛を伏せ、床の上を揺蕩う先生を食い入るように目を凝らしている。
「そうなんだろ?なぁ、おら、あんあんふんふん鳴けよ。鳴け、鳴け!」
相手を壊すことも厭わない腰遣いで突かれ、先生は弾んだ。
「なぁ、カエリ。お前とヤるときもあんあん鳴くんだろ?」
男は楠葉へ首を捻る。話を振られた彼は乱暴な男を見るでもなく顔を伏せた。
「知らない」
「照れんなよ、ヤることヤってんだろ?この男食いがお前みたいなイケメン放っておくはずねぇだろ。ああ、巨デブにめちゃくちゃにされたいド変態だったか?」
ぱつん、と腰骨まで砕きそうな音を鳴らして穿つ。
「あぁあっ…!」
先生の首を擡げた程度のまだ勃ちきっていないものから蜜汁が飛んだ。
「そっちの気違 げは論外だな」
「あ…っあ、あっ……」
「ほら、締めろ…!」
男はふたたび先生の首を締めた。先生の口からは泡が漏れた。問題が解決したのか首絞めは解かれたが、その手は艶やかな髪を鷲掴み、鼻血で汚れた白い顔を殴る。
「よせ」
楠葉が口を出す。麦也は手を握ったままであるがままを眺めていた。
「ンだよ」
「殴るな」
「もしかして、惚れてんのかよ?」
息を切らす先生の潤んだ瞳とともに麦也も楠葉を見てしまった。一斉に視線を浴び、美しい男の美しい唇が歪む。麦也は高校時代を思い出していた。
「俺は…」
「僕は惚れています。心酔しています。敬愛してやみません」
若い男は「てめぇは黙ってろ!」と怒鳴った。しかし矛先は十分に逸らせたようで、粗野なセックスが再開した。楠葉は俯いていた。長く濃い睫毛がゆっくり開閉するのが見える。包んだままの薄い手が麦也の手をまた握った。治りかけの火傷のように重なっている肌が疼いた。先生と皮膚を合わせることは化膿と炎症に似ている。胸にまで響いた。堪えておけない感情を吐き出す。
「大好きです、先生。大好き」
「あ…っんんっ、ポチ……もっと、もっと…あっ、ぁんっ」
「先生、大好き。大好きです」
指が互いに絡まった。水膜を張った瞳が細まる。若い男は低く呻き、ラストスパートをかける。
「っ、腐れ便所が…!っく、ぁ」
男は先生の腰に手を減り込ませ、脚の間に汗の一滴も通さないほど下半身を密着させた。
「先生大好き」
「や、ぁあっあ…っぁ!ポチぃ!んぁあっ…!」
交接している2人の下半身が激しく痙攣する。先生は悶えた。若い男は熱く息を吐く。
「ポチ…っん、ぁんっ」
残滓まだ注がれ蠕動 に泳いでいる間、先生は上体を捻った。両手で麦也の幼い手に縋り付いた。
「先生」
「ポチ」
麦也は前屈みになって淫苦に耐えた手へ何度も接吻した。
「すげぇ出た。やっぱ中出し最高だな」
男の楔が抜け、先生は喉を掠らせた。
「掃除フェラしろや」
先生は怠そうに起き上がり麦也の頬にキスすると男の白濁に汚れた性器を舐めた。膝で立つ先生の内腿からは白い小滝が流れ床に広がった。楠葉も麦也も黙ってその卑猥な有様を見ていたが、麦也の何が何やら分かっているのかも分からない凪いだ瞳に反し、楠葉の普段の冷ややかな目は燃えるようだった。大方舐め取ると、男は先生の綺麗な髪を掴んで離させる。
「ンじゃ帰るわ」
引き倒すように先生を股間から離し、男は適当に肌筒をしまうと何の頓着もなくこの家を出ていった。麦也は粗雑に扱われた先生を受け止め、互いに腕を絡ませ摩り合った。先生は「ポチ…ポチ…」と嘆くような色を持って彼を呼び、麦也のほうでは至るところに接吻した。
「ありがとう、ポチ……」
「いいえ。大好きです、先生」
先生は麦也の腕を抜け、最後に唇に軽いキスをした。そして楠葉を向いて、麦也には分からない、彼等だけの非言語の会話を交わしていた。
「ポチ、他のお部屋にいて。いい子にしていられるね?」
「はい」
「鍋の物、好きに食べていてくれ」
性格は優しいが顔には愛想のない楠葉の表情や雰囲気が少し違ってみえた。先生の持つ妖しさと、鋭い緊張感がそこにある。"あの人"から時折感じるものだった。先生の部屋から出て、他の部屋を使うのは気が引けたため麦也にとって居間代わりになっているキッチンルームに腰を落ち着けた。壁を通して小さくなった切ない悲鳴が頻りに聞こえた。先程の男と2人になっていた時よりも余裕のない、艶めいていながら訴えかけるような響きに麦也は祈った。誰に祈っているのか、俗間によく慣れ親しんでいるようで粗野な男は知りたがっていた。麦也の中でも答えはなかった。神と答えるにはあまりにも漠然とし、祈りを口にするには無責任だった。しかし麦也は祈ることしか知らない。"あの人"から、それが救いだと教えられた時からそうだった。新しい父親は祈ったところで殴るのをやめなかった。母親はどれだけ頼んでも暗い部屋から出すことはなかった。段々と不安になっていく。先程の男の怒りと嘲笑を差し引き、その言葉だけを反芻するたび、心臓が破れそうになった。新しい父親は願っても頼んでも殴り、母親には救いと許しを求めても突き放した。麦也はキッチンチェアに温順 しく座っていたが、うんうん唸りながら頭を抱えキッチンテーブルの周りを行ったり来たりした。時には頭の中をミキサーに掛けられるような恐怖と訳の分からないことを仕出かしそうな衝動をやり過ごすため髪を引っ張った。それでもまだ、何に祈っているのか自身に問うた。"あの人"から教わる前に祈ることばかりは知っていた。暗く狭く、悪臭の籠もった場所は覚えている。光の漏れる奥、からはあんあん、あんあんと聞こえた。あんっ、あんっ、と子犬が泣くような声だった。外にいる子犬を見ようとそこを開けてから、光は漏れることがなくなり、内側から開けることも出来なくなった。臭い押入れの中にはダンボールがあった。麦也はその中にあるものを知っていた。中には雑巾の山のような物体があり、死んだ犬猫だと思っていた。何に祈っているのか、激臭を放つダンボールに対して祈っているとしか言えなかった。ある暑い日に、もう我慢ならないほどにそのダンボールは匂い、視界の利かなくなった空間では聴覚が過敏に働いた。カサ…と音が立つと、死んだ犬か猫の怪物に食われると思った。声を上げるとその音はさらに頻度を増した。食べないでと祈った。殺さないでと嘆願した。空腹も忘れるほど恐ろしくなって、泣きながら壁を引っ掻いた。オバケがいるのだと訴えた。ダンボールの中にオバケがいるのだと喚いた。母親と新しい父親を食べる気なのだと忠告した。すると光が差し込み、母親は押入れから麦也を出した。それからダンボールのことは誰にも言うなと怒鳴られた。ダンボールが自分を助けてくれるもののように思えた。"あの人"から信仰を教わっても、漠然とした本尊を説かれても、麦也の中では鼻が曲がるほど臭いダンボールに祈っていた。妹と弟を動かなくしても、母親と新しい父親が動かなくなっても、悪臭を放つダンボールだけは傍にあった。しかし麦也はそれをどう他者に伝えるのかだけが分からなかった。
あんっ、あんっと先生が鳴いている。麦也はよろよろと家具に手を付き歩き回る。何に祈っているか言ってしまったら、母親と新しい父親と、もう住めなくなってしまう。二度と会えなくなってしまう。家族でなくなってしまう気がした。同時に先生への裏切りに思えた。ここに住み、先生からは離れない。決心が矛盾していることに麦也は打ちのめされた。一貫性のない自身を嫌悪した。壁からあんっ、あんっと聞こえた。大好きな先生と生きる。それだけは変わらない。麦也は涙を拭いてまたキッチンチェアに座った。先生が居ないと不安になった。耐えられないほどの不安と恐怖に襲われ、先生の部屋の扉の前まで来てしまう。押入れに閉じ込められた時と同じくらい恐ろしくなった。動かなくなった妹と弟を山に埋めてから母親と新しい父親が帰って来なくなってしまった時と同じくらい不安になった。一度堪えた恐怖が再来する。新しい父親の姿が先程の若い男になって20年近く前に巻き戻る。
「怖いよ、怖いよ、先生…怖いよぉ…」
首から下がるレイモンドの形見を握り締めた。
「怖いよぉ…」
扉が開き、先生の優しい双眸に見下ろされる。
「いい子に出来なかった……ごめんなさい」
「おいで」
生温かい手を引かれ、ベッドに連れて行かれる。楠葉はその上で待っていた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…、いい子にできなくてごめんなさい……」
麦也は髪を引っ張った。先生の顔を見ると不安と恐怖は拭われたが、そこには罪悪感と不甲斐なさが残った。自身の頭を殴り付ける。指が痛んだ。存在を消したくなっても、この程度の殴打では殺意があったとしても難しいくらいだった。存在は消えずそこにあり、無傷に等しかった。反して情緒は乱れきる。
「ポチ」
自身の頭を殴る手を先生は止めた。
「いい子かどうかなんて言葉、使うべきじゃなかったね。ポチ、おいで。1人にしてごめんよ。おれを許して」
麦也はベッドに座る先生にしがみつき、楠葉はそれを見ていた。母親と新しい父親が裸の時に割り込むと怒鳴られ蹴られたが2人は手を上げたりしなかった。楠葉は相変わらず黙ったきりで、先生は頭を撫でたり背を摩った。
「ごめんね、カエリ。また今度」
「いいえ、気になさらず。では、通常業務に戻ります」
楠葉は淡々とした態度で衣服を直し、部屋を出て行ってしまう。裸の母親に甘えると、新しい父親が母親の顔を殴って麦也を蹴った。怒鳴り散らされて、隣の壁が叩かれる。すると大喧嘩になってサイレンが鳴った。窓が赤く光って、母親は麦也の耳を引っ張り、押入れに閉じ込める。裸の母親に近付いてはいけなかった。
「ごめんなさい…」
睫毛に涙が絡んだ。楠葉はきっと怒っている。どういう顔をして会えばいいか分からなかった。先生の手に宥められ、やっと涙が治まった。
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