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第7話
楠葉はおそらく怒っている。そうでなければ気分を害している。キッチンルームに謝りに行くと彼は豚の角煮とポテトサラダとはまた別に夕飯の支度をしていた。黒のポリエステルのシャツとグレーとブラウンにネイビーが少し入ったエプロンがよく似合う。おそらく麦也よりもわずかに年少と思われたが、その大人びた姿に恥ずかしくなる。彼は麦也の姿を認めると角煮を食べるかどうか訊ね、返答を待たず皿に豚の角煮を盛り付けはじめた。色の目立つパイナップルにも汁が染み込んでいた。リンゴの皮の色が引き立ったポテトサラダも木皿に丸く乗せられていく。
「口に合わなかったら残してくれ。上手く作ったつもりだが味の得意不得意はある」
「いただきます」
楠葉はソースも横に置いたが麦也は何もかけずそのまま口にした。柔らかなマッシュポテトの中できゅうりの食感とリンゴの甘みが楽しかった。楠葉はキッチンテーブルに背を向け、野菜を切った。角煮も口の中で豚肉が溶けていき、旨味が広がった。
「美味しいです」
「そうか。良かった」
彼は振り向くでもなく見上げるような体勢で返事をする。社交辞令ではなく、実際に楠葉の料理は美味かった。事細かく感覚を伝える語彙はなく、単純に記号化された言葉で正直な感想を述べても、まるで軋轢を避けたような無難な物言いになってしまう。第一に、麦也はあまり好き嫌いもなく、美味いか美味くないのかの判別も極端な味付けでなければひどく曖昧で、咀嚼し嚥下に至れるものであるのなら食べられるものとして大体は美味いものと捉えていた。その点でタケノコだけが咀嚼の段階で拒否感を抱き、唯一と言っていいほど食べられない、不味いものだった。
「夕食はもう少ししたらできる」
「はい」
楠葉は気遣わしげに言ってまな板を小気味良く鳴らした。
「まだあるから、好きに食べてくれ」
彼は何度か麦也を気拙げに見遣った。どうやら空腹のためにキッチンルームに来たか、もしくは夕食を急いているように映っているらしかった。麦也は少し焦った。
「あの、僕は、お腹が減っててここに来たんじゃなくて、その…楠葉さんに申し訳ないことをしてしまったと思って…謝りたかったんです」
彼は麦也が謝るといくらか照れるような恥ずかしがっているような素振りをみせた。手際良く動いていた包丁は止まり、リズミカルに叩かれていたまな板は黙っている。美しい輪郭は刻まれたキャベツを見下ろしている。
「特に、宝井が謝ることは何も…ない…」
普段から陰気なほど静かな喋り方はさらに陰を帯び、所々聞き取りづらささえあった。ふたたびキャベツがザクザクと騒ぎはじめた。しかしぎこちなかった。
「あ…ります、あります!」
「ない。仕事だ。ああいうことはよくある。気にするな」
「ですけど、仕事でも、人の気持ちは介入するものですから…」
先生のしなやかな手とは違い、一見して男のものと分かる猛々しさもありながら慎ましやかな色気も醸す骨張った白い手が水滴を散らしながらサラダスピナーに移していく。
「そうか。それなら宝井のその謝罪は素直に受け取ろう。俺は何か損したことがあったわけでもないし、それでこの話は終わりだ」
ミニトマトも包丁の刃先で素速く四つ切りにされていく。
「さっきの人は…よくいらっしゃるんですか」
「そうだな。最近までは海外に行っていたらしいが、帰国ついでに線香でもあげに来たんだろう」
「お線香を…?」
「さっきのを見れば、おかしな話だな」
楠葉は話しながらサラダスピナーを回した。内部で水が切られていく。
「ああ、いいえ…そういうつもりではなくて…」
夕食のサラダが盛り付けられていく。グリルが開き、香草に包まれ玉ねぎの上で焼かれた魚が現れた。薄紅の鱗の切れ込みに白い身が詰まっている。
「もうすぐで出来上がる」
彼は話を打ち切った。そして夕食が仕上がると麦也に食わせ、彼は何も口にせず帰った。
◇
先生はかなり気を遣って家を空けた。楠葉も来ないらしかった。麦也は先生に心配をかけていることを申し訳なく思い、あの若い男と新しい父親を重ねてしまったことを話した。先生の慰撫と楠葉の美味い料理で気分はすっかり落ち着き、また発狂の兆しは特に窺えず、今までも"あの人"と再会するまでそういうことはなかった。たとえ気落ちしやすい梅雨の時期や雨の日、病に伏せた時でも声を上げて泣いたり叫んだり喚き散らしたりするほど乱れたことは。
不甲斐なさに謝ると、先生は額へ口付けた。鼻先と鼻先をぶつけ合うと、もう泣いたり嘆いたりする未来はないような気がした。出掛けていく姿を玄関で見送って、それからはずっと幸せな気分で先生の香りに満ちた部屋にいた。常人ならば退屈で仕方がない時間を彼は祈りに費やした。もう迷いはなかった。先生と幸せに暮らす未来に祈っているのだと胸を張って言えるくらいに麦也の情緒は安定を通り越し、浮ついてさえいた。玄関扉が開き、楠葉かと思った。しかし彼ならば最初にインターホンを3度鳴らす合図があった。となると先生が忘れ物か用事のキャンセルがあって帰ってきたものと思われた。大好きな先生を迎えに行った。だが広い玄関に立っていたのは先生でも楠葉でもなかった。青みを帯びた染色による黒髪の男で、麦也を見るとにやりと口角を上げた。
「ンだよ、居んのかよ、クソガキ」
彼は悪態を吐いた。
「先生はいらっしゃいません」
「カエリはいんだろ?」
「いいえ」
「気違 げと2人きりとか怖ぇな」
若い男は両腕を抱いて大袈裟に凍えてみせた。
「おいおい、頼むから後ろからぶっ殺したりすんなよ。気違げはすぐ無罪になるからな」
玄関に置いてある大きな壺をみて男は言った。そして靴を脱ぎ、足音を喧しく立ててレイモンドの部屋に入っていく。
「脱税野郎は天国には行けねんだよ。なぁ、そうだろ?そう思うだろ?六文銭も税務署に持って行かれちまったんだなぁ…」
男はチェストの前で合掌する。レイモンドの骨壺と遺影とは違う小型のよくある写真の前に仏具が置いてあるだけだった。拡げた湯呑みのような真鍮製の器具を男は冒涜のように、まるで楽器とでも思っているのかチンチンチンチンうるさく鳴らした。
「おっ死 ぬにも金がかかりやがる。それで経済が回るから仕方ねぇなぁ。脱税でしこたま遺した金は地獄に持っていけたかいや?納税しねぇ、葬式屋には金落とさねぇ、寺の生臭坊主どもにも世話にならねぇ。このご立派な道具代だけだよ、脱税野郎に金を使ったのは。なぁクソガキ、そうだろう?」
「レイモンドさんが脱税していたかは分かりませんが、消費税は納めていたと思います」
「違いない、違いないなぁ」
男はドラムでも叩いているかのように鈴をチンチンチンチン鈴棒で鳴らした。麦也はぼろぼろと泣いている男を見ていた。
「よし、辛気臭いのはナシだぜ。出掛けよう」
「えっ」
彼は鈴棒を置くと、まだドラム代わりにした鈴の響きが消えないうちから麦也の腕を掴んだ。
「いけません!そんな…」
「うるせぇ、来るんだよ!童貞野郎が逆らうな。気違げと脱税野郎と童貞に人権はねぇんだよ」
「嫌です!やめてください!やめてくださいっ!放してください!」
「放してくれ、やめてくれだぁ?放して何のメリットがあんだよ、あ?納税すりゃ、返ってくる。隣人ってやつに福祉と公共事業ってやつで返ってくる!てめぇを放して何のメリットがあんだ?あ?行くぞ、おら。童貞野郎が。女とセックスさせてやる」
男は怒鳴り、麦也は怯んだ。すると男のほうも声を荒げるのをやめた。しまいには従順になった麦也の腕を掴む手を振って歌いはじめた。
「せめてお名前を教えてください…名前も知らない人と出歩くなんてことはできません…」
「はぁ?ボクの名前聞いて隣の国に売る気なんだろ!売国奴!この国から出て行けや!納豆食うな!」
他者に名前を訊ねることで怒鳴られるとは思ってもみなかった。さらには被害者のふりをされることもまったくの想定外で、怯えることも忘れてしまう。
「ち、違います!そんなことしません!」
「嘘だな!それでボクの家に工作員をよこす気なんだろ!エロ漫画みたいにする気なんだな、犬畜生のド変態!ちんぽはカスみてぇに小せぇのに妄想だけはご立派だな、この童貞野郎が!てめぇの自慰 り肴 になんか絶対なんねぇから!」
男はキィキィ喚く。麦也は久々の外の空気を吸って落ち着くよう努めた。庭に停められた曇り空をはっきりと映す車に押し込まれる。
「女とセックスさせてやる。性風俗 行くぞ、性風俗 。雨村 のちんぽケース穴しか知らないんじゃ、お前、童貞と一緒だがな」
「ぼ、ぼぼ、僕は、せ、先生とはそういう関係じゃありません…!」
「事実 ?あのちんぽバキュームとヤってねぇって本当 ?」
彼は麦也の顔を覗き込んだ。
「ちょっとだけ…」
「はぁ?セックスにちょっとだけもクソもあるかよ。意味分かねぇ。先っちょだけだから…先っちょだけだから…って言ってヤらしてもらったのか?先っちょでも挿れたなら責任取れやクズ!ヤり捨て野郎!ヤり捨て!ヤり捨て野郎がよ!てめぇはファックマシンの生まれ変わりか?あ?」
男は荒々しい運転で麦也を揺さぶった。
「わぁっ!」
「フーゾクに行くぞ!フーゾクに!粗チン野郎が!粗チン!女とセックスしろ!女と!粗チン野郎がよぉ!」
運転しながら彼は気が狂ったように怒鳴り、麦也は身を小さくした。
「てめぇは気持ち良さにヘコヘコみっともなく腰をおっ振るんだよ。おっと、童貞、よそで言うなよ。ホントはセックスしちゃいけないんだからな。童貞はすぐあっちこっちでセックス自慢をはじめやがる」
ウィンカーがカチカチと鳴った。ハンドルの上に伏せながら彼は交通整備を眺めていた。荒々しい運転は最初だけだった。繁華街にある大型デパートの駐車場に停め、男は麦也を引っ張り出す。
「言うこときかねぇと置いてけぼりにすっからな、ガキが。クソガキ!ガキ!」
「やはりお名前だけでも教えてください。お願いします…」
「ガキ!」
「僕は、宝井麦也と申します。個人情報を売ったりしません。お名前を教えてください」
麦也はレイモンドの形見を握り締め、ぷるぷる震えながらもう一度訊ねた。男は唇を尖らせて麦也を見下ろした。
「光月 」
「ミツキさん?ではミツキさんとお呼びします」
ミツキと名乗った男は麦也から目を逸らし、ぼんやりした。デパートを通って繁華街へ出る。
「ガキ、18いってるよな?」
「はい」
「投票ちゃんと行けや、ガキ」
「毎回行ってます」
ミツキはキィキィ言い出し、ねちねちと罵倒をはじめた。ピンク街に向かって腕を引っ張られる。
「もし僕が18歳未満だったらどうなさるつもりだったんですか…?」
ほんの興味から麦也は訊ねた。
「淫行条例違反はゴミクズだぞ、ゴミクズ!気違げに手ェ出すポイント高ぇゴミクズ2人を突き出す以外にねぇだろ、ガキ!黙 ってろ」
一方的に罵倒を続ける様は人目を引いた。そうでなくても麦也が歩かされる様はまるで誘拐のようだった。
「イケメン無罪かよ、クソが。カエリだってよぉ、あの綺麗な顔面に塩酸ぶっかけりゃドロドロだっつの」
「や、やめてください!やめて…!楠葉さんに酷いことしないでください!」
「やんねぇよ、例え話だっつの。これだから義務教育ってのは!どんなバカでも9年で世間に野放しなんだもんなぁ?おい!」
またミツキは怒鳴った。麦也はレイモンドの形見を握った。
「人の能力はそれぞれですから、補い合っていけばいいじゃないですかっ!そんなふうに突き放してはいけません……っ」
「全体主義のいい子ちゃんがよぉ!学級委員か、てめぇは?生徒会長か?おい?どうだったんだよ。去年か?一昨年か?」
「もう7、8年は前になります…っ!」
「ふん、さぞかし小賢しい小坊だったんだろうな、ガキ!」
投げ捨てるように麦也は放られる。ピンク街に着き、ミツキは先に行こうとした。
「麦也!」
聞き覚えのある低い声に麦也の進みかけた足は半歩のところで落ちた。渋く低い声を高らかに、足音が近付いてきている。
「おい、ガキ!ンだよ。逆スピード違反だぞ、亀野郎。亀はちんぽの先っちょだけにしとけよ、童貞」
数メートル先に行っていたミツキが戻ってきた。一度離した腕を奪い取る。麦也は動けなくなっていた。ミツキと行くか、振り向くか。
「麦也ッ!」
"あの人"が呼んでいる。反応を示さない麦也へミツキは怒りを通り越して呆れてすらいた。
「麦也!」
「うっせぇな、なんなんだ?スカウトか?」
ミツキは青みを帯びた黒髪を撫でる。麦也はミツキに手を伸ばしたが、後ろから伸びた腕に引き寄せられた。
「やっと見つけたぞ」
身体を包む高い体温と上から降る息切れに反して麦也は凍り付いていた。ミツキは呑気に髪を掻いていたが、すぐ傍の異変に気付くと牙を剥いた。
「てめぇ、臓器売買野郎か!」
否定しようにも声が出なかった。十塚に丸呑みされているような心地になる。
「帰ろう…今までどこに居た?捜索願を出すところだったんだぞ」
「あ…、ああ…」
頭の中は引っ掻き回され、何から話していいか、まず話していいものか、分からなかった。思考は白く塗り潰され、挨拶のひとつも出てこない。
「放せよ、誘拐犯。童貞の健全な臓器売買2000万くらいでガッポリ儲ける気だな。そいつは今から性風俗 にズッポリしに行くんだよ。どうせ2000万儲けても脱税する気なんだろ。放せ、脱税予定野郎。気違げチビもやし童貞にも人権あんだよ、ざけんな」
脱税という単語が大の気に入りらしいミツキは喚いた。十塚はまったく相手にもせず、話せずにいる麦也の肩を抱いた。
「交友関係を改めろ。お前には向かない。心配させてくれるな」
十塚から囁かれる声音は優しかった。響きも良い。麦也は呆然としていた。
「おいガキ!逃げんのかよ。その首に引っ掛けてるもん返せや!あの脱税野郎が浮かばれねぇよ!」
麦也は狼狽えた。しかし首から下がる重みのあるリングを握ると不思議と事態がすんなりと呑み込めた。肩を抱き、ミツキから引き離そうとする逞しい腕を拒絶した。
「僕、十塚さんとは行きません」
長い前髪の奥に据わる昏い双眸がわずかに瞠られた。
「僕、」
足の裏が地面から離れた。膝裏に鍛えられた腕が差し込まれる。分厚い胸板を覆うシャツが頬を擦る。麦也は冷静で慎みのある長い知り合いの暴挙に再び言葉を失った。50kgと少しある身体を持ち上げ、十塚は駆け出したり
「おい、ガキ!返せや、誘拐犯!強姦魔!性犯罪者の童貞狩り!」
名誉を著しく毀損する罵倒を並べ、ミツキは追ってくる。
「そいつ売ってもせいぜい500万だぞ、そんなチビもやし童貞!剥製にして売る気なんだ!変態!サイテーだな!未成年を売買していいと思ってるのかよ、ゴミがよぉ!」
ミツキはキィキィ言いながら十塚を追った。麦也は暴言を趣味にしているらしき連れの運転よりもぐらぐらと揺れる視界に酔い、筋張り反発と質量のある胸枕に頭を預けた。
「お前の近所で殺人事件が相次いでるんだぞ、分かっているのか!そんな時にお前は何をしている?」
走りながら十塚は声を荒げた。風圧と酔いに麦也はろくに話を聞いていられなかった。人聞きの悪い罵倒ばかりを叫ぶ若い男に追われる人を横抱きにした筋肉質な大柄な男の姿は繁華街で人目を大いに引いた。酔いをやり過ごすため目を閉じる。十塚は建物に入ったらしく、目蓋の裏がさらに暗くなる。階段を上がっているのが振動で分かった。ふらふらと首を持ち上げる。十塚の顔が見られなかった。
「どうして…」
「もっと早くこうすれば良かった」
支える力が強まった。冷房の効いた部屋の中に入ったために十塚の体温は火傷しそうなほど熱かった。何部屋から通り過ぎててやっと降ろされた場所はベッドだった。麦也は訳が分からず、妙な内装の室内を見渡した。濃いピンク色の壁紙に、明らかに1人用ではない枕の置かれたキングサイズのベッドに真紅のシーツカバー、絨毯は赤と黒の市松模様だった。色の付いたダウンライトは淡い色調のものを変な色合いにしていた。
「十塚さ…」
「さっきの男はなんだ」
「ミツキさんです。友人というほどではありませんが、きっともう少ししたら友人になれそうで…」
大きな掌に華奢な肩を掴まれ揺さぶられた。その仕草は麦也の知る彼らしくなかった。
「どうして帰って来ない?どこに暮らしている?誰の世話になっている?男でもいるのか…!」
十塚は怒鳴りながら質問を重ねる。彼の怒りは麦也の新しい父親やミツキと名乗った男のただ感情任せに怒るものとは違っていた。それが麦也には怖かった。怒りが収まるまでその場をどうにかやり過ごせば済むものではなく、殴打や蹴りなどの痛みはない代わりに本当に返答や言葉を待っているような凄みがある。選択や言葉を奪われてしまいそうで、それは身体に拳程度の痣や数日程度で塞がる傷を作るよりも今となっては苦しさがあった。
「答えろ…!」
昏い双眸が至近距離に迫った。麦也は慄く。唇が動くか確かめた。勢いで捲し立てる。
「新しい友人ができました。それから尊敬する人も…今はそこで暮らしています。毎日美味しいご飯を食べさせてもらっていて…少し太ったんですよ、2キロくらい…これは亡くなった、また別の友人の形見です…」
麦也は首に掛かったシルバーリングを摘んでみせた。肩を握り潰しそうな掌にさらに力が籠る。十塚の鋭い眼差しは変わらなかった。
「住み着いているのか」
「そうです。ずっと一緒に居たいので…」
「帰って来い。俺もずっと、お前と一緒にいる」
厚い胸板とよく鍛えられた筋肉の乗った腕に挟まれ、麦也は目を見開いた。そして突っ撥ねた。
「だめですよ!家族がいらっしゃるでしょう!僕は十塚さんの重荷になりたくないんです!」
耳鳴りが甲高く頭の中に響いた。罵倒と怒声に聴覚と脳も参っている。
「麦也」
「僕は貴方の重荷になりたくないです。余計なお世話だと重々承知していますが、十塚さんには家族を大切にしてほしいんです。お子さんのことも、家人のことも…」
それは建前でなく本音でもあった。元の父に引き取られてからも、願ったような家族生活は確かに有りはしたがあまりにも短かった。妹と弟を死なせただけでなく、血縁上でも不義の長男を真に受け入れられはせず自殺に追い込んでしまった。事情は大きく違えど、子供にとって家族は居場所だ。他に選択の余地がない。手足を預けた場所も同然だ。十塚の眼差しはまだ赦していなかった。麦也は目を逸らしてしまう。友人の形見は握れば握るほど自身の体温を返してくれた。
「その…僕は、毎回、秤に掛けられるような心地になるのは、…もう嫌なんです」
するといくらか相手の目付きが変わった。
「先生は僕を一番に考えてくれます。罪悪感が湧くくらいです。自分が嫌になるくらい僕のことを一番に考えてくれます。幸せです。僕も先生のことを一番に考えます。その時は自分を好きになれます。もう僕は先生なしに幸せになれません。僕は先生と生きていきます。僕は先生が大す、」
語末は唇ごと奪われた。大きな波のようだった。麦也は一瞬でベッドに倒され、体格のいい影に覆われた。厚い唇の弾力と絶対に離さないという強い意志の窺える腕の間で麦也の身体は力を無くした。それをいいことに合わさっていただけの唇が開き、開かれ、舌が口腔に伸ばされた。麦也は細い手で抵抗した。筋肉のついた腕に指を減り込ませる。舌を掬われ、舌先同士を何度かぶつけ合うと、根本から巻かれながら絡まれる。扱くように動き、また根本から掘り起こすような愛撫をされる。口付けの角度を変えながら繰り返され、圧倒的な力量の差と巧みな舌技に麦也は身を委ねるほかなかった。思考は停止して、四肢は投げ出された。首ももう据わらず、ベッドの柔らかさに後頭部が沈む。添えられた熱く大きな掌で濃厚な接吻を調節される程度だった。与えられる陶酔感をそのまま受け取ることしかできず、息も忘れる。被捕食者か、雛鳥のような心地がした。家族のある者にまだ一人前、ひとりの大人として認められていないようで不甲斐なさがとろとろに溶け切った意識の中に現れた。自意識としてもまだ先生に心配をかけ、楠葉を巻き込んだりしているが、それでも十塚の前では自立し安定した自分を装っているつもりだった。まだ家族のなかった十塚と過ごした日々を思い出し、涙が静かに溢れた。眦を伝っていく。雫は蒸発させかねないほど熱い指に落ち、唇が離れた。
「愛してる」
昏い双眸と目が合う。この男は昔から麦也の欲しい言葉をくれた。しかしもう必要なかった。
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