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第8話

 口接が解かれ、麦也は筋肉質な大男の下から這い出た。 「僕にはもう先生がいますから。あの家には帰りません。先生は僕を必要としてくれます。僕にも先生が必要です」 「俺にもお前が必要だ、麦也」  切の長い眼差しから麦也は目を逸らした。 「貴方には家族がいます。貴方に僕は必要ないです。そして僕に必要なのはあの先生だけです。帰ります」  ベッドから降りようとすると腕を引っ張られる。関節を取り戻した反対の手で亡友の形見を握った。 「離してください。貴方は発つ時、僕の母と義父みたいに何も言ってはくれなかった。どう頑張っても僕は貴方の息子さんや家人のその次になるのは分かっていますし、そうでなければ困ります。ですが、僕は、他人の優先順位を推し量って決めようとする自分が嫌なんです。誰かの1番になりたいだなんて思う浅ましい自分が嫌なんです。僕にはもう居場所があります。貴方に家族があるように」  十塚は放さなかった。左手の薬指には指輪が光っている。麦也はそれを認めると目を伏せる。 「置いていったことは悪かった。あの約束も果たさなかった」 「…すみません。母と義父のことは完全に僕の都合でした。十塚さんにも十塚さんの事情があったんだと思います。約束も、結局は僕が条件の果たせない未熟者だっただけですから」  厚みのある掌から麦也は自身の腕を引き抜いた。レイモンドのシルバーリングを両手で包む。 「あの時の僕はどうかしていました。心中しようだなんて。十塚さんはご結婚して、僕には素敵な人々との出会いがありました。あんな約束は果たせなくて良かったんです。子供の我儘に付き合ってくださってありがとうございました」  出て行こうとすると、今度は背後からしがみつかれる。麦也は派手な絨毯に視線を彷徨わせる。 「好きだった。ずっと。今でも好きだ。愛してる」  肩の上に十塚のしっかりした顎が乗る。時の流れが十塚を知らない男に変えていった。つまらない方向に、著しく。不倫だった。家人と息子のある者の発言として考えられないことだった。伴侶にしたいと思っていた7年ほど前だったなら分からなかった。もう喜びはない。麦也の上の同胞(きょうだい)は育たず死んでいるため、彼は兄というものを知らなかったが、それでも十塚は世間の兄弟と比べてみたとき、十分に、今となって兄のような存在だった。となれば既婚者の兄代わりに気遣わせるのは忍びない。 「そのお言葉は、もう僕には必要ありません。大丈夫です、平気です。ちゃんと愛してくれる人がいて、僕も大好きな人ですから」  腕を振り払う。無難とはいえない色合いのドアの把手を捻った。しかしラッチは引かなかった。目の前には目に痛いライトによって何色なのかも分からない気の利いた木板があるだけで、開くものと思い進んだ麦也の顔面にぶつかった。足音が(にじ)り寄ってくる。 「お前は俺といたら駄目になる、そう思っていた」  麦也はゆっくり、十塚を振り返る。 「だから結婚した。捨てた家に戻った。好きでもない女をそれでも愛そうとした。血の繋がらない息子の親になろうと決めた」  だが十塚の顔を見られず、またドアと見つめ合う。 「僕には祈ることしかできません。そうでなければ僕には関係のないことですから」  もう一度把手を捻ったがやはりラッチは動かなかった。鍵は付いておらず、脇にモニターと自動販売機や精算機のように小銭や紙幣を入れる口があった。しかし麦也は金を持っていなかった。祈りではこの扉は開けられない。足音と気配は真後ろまで迫り、華奢な肉体は男児のように抱え上げられ、ベッドに戻される。荒々しい息遣いで十塚は麦也を眺めた。飢えた野獣を前にしているようだった。 「麦也」  十塚はシャツを脱いだ。肉体芸術の道を歩む者かと思うほど鍛えられ、野性的な美しさを惜しげもなく晒す。 「十塚さん、帰してください…ミツキさんが待ってるんです」  麦也も痩せた腹を捲り上げられる。先生が様々な男を取り替え引き替えするところを見ておきながら、傍で聞いておきながら麦也にはまるきり十塚の企みが分からなかった。自身の服を脱ぐまでならば部屋の温度に耐えかねたのだとそれで済んだ。しかし麦也は暑さも寒さも訴えなかった。むしろこの室温で暑がるのであれば健康状態を損ねているとさえ思ったくらいだった。平たい腹を撫でられる。脇腹には円形の火傷の痕が点々としていた。特に気に留めるものではなかったが、撫でられて意識する。新しい父親は泣くと怒鳴り殴るくせ、泣かせたがるところがあった。まだ幼い妹と弟はよく泣いたが麦也は大したことでは泣かなくなり、煙草を押し付けられたらしかった。しかし麦也にその記憶はもうなかった。どれほど煙草の先端が熱いのかももう思い出せそうにない。傷に灰が混ざったことや直後に処置をしていないこと、栄養状態が良くなかったことなどの点から時を経て綺麗に消えることはない。かといって医者にかかるような必要性も感じられなかった。十塚は4つほどある小さいながらも深い火傷の痕に口を寄せた。傷んだ前髪が皮膚を掃く。 「何するんですか……?」  十塚との関係で、腹に口付けるのは異様なことだった。 「お前を俺のモノにする」 「ひぇ…」  唸るような声音と鋭い眼光に並々ならぬ情念を感じ、麦也は逃げようとした。しかし十塚の体格に押さえ込まれてしまえばもう逃れられなかった。 「お前は何もしなくていい。痛いこともしない」  容赦しているようで腰に跨られても全体重を預け骨が砕けるような重さはなかった。 「傷付けたりしない」  捲り上げられた裾から手が入り、薄い胸板を摩った。数度撫で回してから脇腹や腰の曲線を辿る。 「くすぐったいです」 「女を抱いたことはないな?」  ミツキに卑猥な話を振られるときより婉曲的ではあったが、彼の直接的な物言いより生々しさがあった。麦也は顔を真っ赤にする。交際経験もなければ好意を寄せたこともない。私的な場面では話すのにも苦労を要した。 「良かった」  呟きは掠れていた。麦也はまた逃れようとした。 「麦也」  十塚は上体を倒し、麦也の耳朶を口に含んだ。舐め(ねぶ)り、舌先で転がす。耳殻もまた唇で食まれた。首筋を辿られ、くすぐったさに強張る。麦也は目を閉じた。衣擦れが聞こえる。あらゆる場所を触られ、愛玩動物の苦労を味わった。股間の膨らみは特に、触覚だけでない情感を起こした。先生が舐めたり扱いたりして以前よりも格段に粘液を放出していたが、それでも若い身体は貪欲に放精の機会を狙っている。高校時代は十塚を見るだけで勃起していた。しかし肉体の反射のみで、そこに具体的な欲求はなかった。  先生よりも大胆に、即物的に厚みのある手は麦也の性器を扱いた。そこは血管を浮かせ、麦也の雰囲気や実際の気性からは考えられないほど凶暴でグロテスクなものに変貌していく。外国の熱帯林や密林の奥地に生えていそうな異形の植物にも思えた。気味の悪い、到底共存などできない巨大な不快害虫の卵にも見紛う。麦也は知らず知らずのうちに股間に凶犬かあるいは猛虎を飼っていた。日頃から、自身の器官であっても遠慮がちに洗うのが精一杯で、直視することを恥じた。それでいて育ってしまうと極めて太く、魑魅魍魎が潜んでいそうな禍々しい雄肉棒を白猫ムグリの淫影の小さな口蓋や可憐な肉球、純白の毛に覆われた見事な乳房に任せきりにしていた。 「十塚さん…」 「大きいな」  繊細な作業は苦手そうな豪胆な指が先端部の筋に沿い、指の腹で軽く潰しにかかる。 「はぅう…っ!」 「麦也。俺はお前が可愛くて可愛くて仕方がなかった。取って食っちまいたいと思っていた。ずっとだ。ずっと」  敏感な陰茎を刺激され、麦也はあひあひ鳴いた。おそらく十塚の切実な告白も聞いてはいなかった。全体を少し硬さのある掌で擦られる。先生の肌とは違った。動きもリズムも違った。 「あっあっ…!」  腰を浮かせる。破壊的ながらも的確に性感帯を突く手淫を施され、はひはひ呼吸を荒げている間に十塚はボトムスを下着ごと脱ぎ去る。逃げる隙はあったのかも知れないが、爆発のような快感に下半身と頭の中は蕩け、息を繰り返すのでもやっとだった。 「お前は男を狂わせる」  麦也はぶるぶる首を振る。服を着ているほうがむしろ違和感があったことに気付くほど、十塚の裸体は美しさを湛えていた。コンクリートの森林、アスファルトの砂漠、金属の空、プラスチックの海の中で暮らしていても捨てきれない自然の片鱗がそこにある。全裸の男は麦也の腰に乗った。巨悪的な印象を持った剛直が天井を向き、粘着質に濡れている。そこに大きな影が重なった。麦也はまたぶるぶると首を振った。そこでやっと先生が習慣にしている苦業的で儀式的な行為をするつもりなのだと察した。 「だめです、だめです!だめです、こんなのは…不義です、裏切りです!」  十塚は麦也の凶棒を支え、そこに座そうとしていた。麦也は蒼褪め、抵抗したが、卑猥な(きっさき)はすでに十塚の秘奥に佇む(いましめ)に接触していた。喉は嗄れ、祈りはじめた。先生と手を繋いで歩く未来の構図に(ひび)が入った。 「ああ…そんな、ああ…ああ…」  引き締まり硬そうな両腿の奥で、麦也は自身の(たぎ)らされた器官が窮屈なものに搾られていく様から目を逸らした。嘆きながら顔を覆う。 「…っ、太い…」  十塚は低く呻き、先端部の括れほど太さのある中間部で膝をついた。汗が落ちてくる。目の痛いライトと炙られた肌はサウナ風呂を思わせたが腹から下を外気に晒している麦也は少し寒いくらいだった。 「だめです、だめです、やめましょう!やめましょう!」 「麦也」  顔をぐしゃぐしゃに乱しながら麦也は懇願した。十塚の目は長めの前髪もあり黒影に塗り潰され、汗に照りながら釣り上がった厚い唇しか見えなかった。 「…っぐ、ァ、」  強靭な肉釘を受け入れる男は苦鳴を漏らした。麦也のほうでも陰部を引き抜かれ毟られるような圧迫感に視界が明滅していた。ぶち、という小さく儚いものが潰されたような千切れたような軋みを陰茎で感じた。そして冷たくなる。恐ろしさに鳥肌がたった。悪寒がする。麦也自身に痛みはなかった。圧縮されている疼痛を除いては。 「なんてことですか、なんてことですか!ありえない!ああ…」  また麦也は喧しく嘆き、顔をぐしゃぐしゃに揉んだ。冷たいものは麦也の陰茎を伝い、内腿までやってくる。何の痛みもないのがかえって恐ろしくなった。過呼吸を疑うくらいに短い間隔の息切れにさらに不安を煽られる。 「許してください、許してください!ああ…!まずは僕の上から退()いてください、お願いします、お願いします…!」  十塚の指が騒ぎ立てる麦也の口を塞ぐ。 「…大丈夫だ。すぐ治……る、」  黙ってしまうと次に訪れるのは混乱だったが祈ることだけはやめなかった。下半身に乗った大柄な男はさらに腰を落とした。冷たく濡れたものが体温に消えていく感じがした。ベッドよりも先に屈強げな男の狭い体内の入口が軋んでいる。 「少し、萎えた……、な…?」  囁きには苦しみが混じっていたが白い歯が覗く口は弧を描いている。麦也の唇に立てられた指は胸でもう片方の手と合流する。先生の摘み捏ねたがる双つの粒が様子をみるかのように突つかれた。 「ぁう…」 「麦也…」  実粒を引っ張られ、麦也は背を反らした。先生に触られているときに起こる痺れに似た中毒性のある疼きはない。薄い皮膚を抓られているだけだった。そこには遠ざけたい、不快感のあるくすぐったさしかなかった。 「ヨくない、か…?」 「やめましょう…こんなこと…僕は貴方を友人だと思っています、これからも。一方的でもいい。僕は一方的にでも貴方を友人だと思っています…だから…」 「俺はお前を友人だと思ったことはない」  麦也は目を見開いた。言葉に詰まった。胸も詰まる。男の狭い孔にも暴力的な大きさの器官がみっちりと串刺しになっている。レイモンドの指輪に慰めを乞う。亡友のペンダントはいつでも優しかった。 「でも僕は貴方を友人だと思っていました」 「俺は…、っお前を……モノにしたいと、思っていた…!」  精神的な衝撃に肉釘はわずかに衰えた。十塚は勢い任せに腰を下ろす。それでもまだ暴君といえるサイズの麦也の巨砲に、常温に慣れた結合部がまた冷たくなる。根元への一点集中型な圧迫感以外に痛みはない。それは冷たいものが与える印象とは異なった痛みだった。 「ぐ、……っぅ」 「十塚さん…痛いでしょう?やめましょう、やめましょう…もう友とは呼びませんから…」  肉銃は少しずつ萎え、十塚は無理矢理に腰を上げた。ぬるりとした感触は不快で不快で麦也は唇を噛んだり強くシルバーリングを握り込んで誤魔化した。 「帰してください。帰して…僕にとって十塚さんは安心できるお人でした。好きだったんです、好きだったんです、本当に。バレンタインもクリスマスも、夏祭りも七夕も一緒に過ごしたかったんです、みんなみたいに。でも僕とは7つも8つも離れてる大人だから、僕みたいなのは釣り合わないと思ったんです。僕はお酒も飲めないしタバコも吸えないし、お金だってほとんど生活費に充てなきゃならなくて、僕は子供で年下ってことだけを盾に気を遣わせるのは目に見えてるから…本当は好きだったんです、あの頃は…」  身体を挟む硬い膝を力の無い拳でぽかっと叩いた。 「それでも友人と呼びたかったんです、僕の気が休まるのはあの時、十塚さんだけだったから」  鼻腔が潤みはじめ、麦也は何度も鼻を啜った。経験からいって「泣くな」と言われると惨めな心地と激しい羞恥に襲われる。 「だが、過去の話…だろう?」 「はい」  十塚は麦也の腹へ上体を倒した。低く咆哮を擦れさせながら腰を振る。輪ゴムを陰茎に巻き付けたようだった。内肉は柔らかかったが、あまりにも狭く互いに削り合う。 「ぁいぃぃっ!」 「…っく、ぁ…ァッ、」  もがき苦しみながら十塚はひっくり返った蛙を真似た麦也を抱き寄せる。 「愛してる」 「十塚さ…」 「愛してる」 「やめてくださ、」  結合部が水音を立てた。十塚は耳元で息を荒げ、呼吸を整えるとその小さな耳朶を舌で弄んだ。 「あっわぁあっ!」  きつい肉に扱かれ、精魂は猛々しさを取り戻す。耳を食む口から息吹が漏れ、苦しみを滲ませた。十塚の窄孔は麦也の剛直を甚振る。狭窄門がはち切れるか、極太棒が絞め殺されるかだった。 「おちんちんぎゅうぎゅうしないでっ、くださぁ…っ!」 「お前のが…っ、大きすぎる……」 「潰れちゃう、おちんちん潰れちゃうぅ!」  力尽くで十塚は尻を弾ませた。生ける芸術品に等しい肉叢にしがみついて麦也は苦しみと快感を往復した。このまま十塚の狭孔から陰部が抜けなくなることさえ想像した。そうなればこれからどう生きていこう。救急車を呼んで助けてもらうしかない。ずっぽりと巨串を呑んだ十塚のほうは無事では済まないだろう。一生償うような傷を負うかも知れない。実際結合部からは血が出ている。 「もうやめましょう、こんなことに意味はありません。こんなことに…」  早く男の狭筒の中から膨れ上がった砲身を抜きたかった。腰を引いてみるも、唸り声が耳元で轟き麦也は硬直する。 「俺は、嬉しい」  動く隙もないほど腫れ、内部で引っ掛かり軋んでいる巨茎を彼の濡肉は無理矢理に摩擦する。 「ぁうう!壊れちゃいます、壊れちゃいます!」 「いい…俺の中でイってくれ」  耳と胸も同時に責められ、巨根を滑る輪ゴムに等しい圧痛も癖のある快感に変わった。麦也は顔を背けて逃げようとした。晒した首筋に舌が這う。頬を少し硬さのある傷んだ毛先が撫でていく。 「だめです、だめです、ああ…あぁっ!」  ベッドが軋むほどの抽送がはじまった。口の中に溜まった唾液を嚥下することも忘れ、快感と痛みが(せめ)ぎ合う。強烈な閃光で視界がちかちかした。良識を説く余裕も、先生への純潔を慮る余地もない。濁流に呑まれているような時間は、陰茎だけが生きていた。腰を上下する男の声色も変わり、それを隠すように麦也の耳を舐め、甘く噛んだ。耳の中に舌が入ると麦也は任せきりにしていた下半身を動かしてしまう。誰に教わったわけでもなく、腰がかく、かく、と動いた。臍からしたとはまるで別の意思を持ったみたいだった。 「アっあァ…!」  耳のすぐ傍で悲鳴があがる。 「漏れちゃいます、漏れちゃいます…!あっあっ、お漏らししちゃうッ!」  訴えても襞の淫らな搾取は止まらなかった。理性に反して麦也の尻はほんの短かな間でも離れようとする固い臀部を追い、下から貫いた。血肉は鋭い快感に従い、精失禁を求めている。抽送途中のわずかな離別も許さない肉杭に十塚の圧搾が強まる。 「あっあっあぁ!白い液体(ちっち)出ちゃいます、せんせ、せんせぇ!」 「ぁ…っぐぅう…!、」  叫びと呻き、そして隣室と接しているらしき壁奥からの殴打。衣摺れが遅れてやってきた。太過ぎる栓を受け入れたままの窄壺からは先生がしていたときのような粘滝は作られなかった。それでも六つに割れた腹の下では濃厚で執拗な半液体に包まれた何億もの種鼠が吐き出されていた。十塚は麦也を格闘技と紛う力で抱擁し、戦慄いた。 「ああ…ああ…掻き出さないと、ああ…ッ!」  体内に出された体液の処理は主に楠葉がやっていた。そのために麦也もまた、開けたら閉める、取ったら戻すというような順序でそういうものだと思っていた。精を大放流した余韻にまだ頭がぼんやりした。 「掻き出します、こっち向いて…」 「…いい」 「だめですよ。お腹壊すって聞きましたよ。だめです!」  楠葉が面倒臭がる先生に、確かそのようなことを言っていた。本当に腹を下すのかは定かでなかった。方便かも知れない。十塚は汗に濡れた顔を顰め、麦也を睨んだ。 「傷だって…」  彼は昏い眼差しに戻り、裸体のまま立ち上がった。浅黒い腿を細い濁流が伝う。そのまま歩き、彼はモニターを操作すると金を入れた。ドアが開く。 「帰れ」  練乳とほぼ同じ粘度の液体が、ぱんと張った脹脛に差し掛かる。麦也は一瞬何を言われたのか分からなかった。 「帰れ…」 「でも、あの、」 「帰れ。二度と会わない。もう二度と…」  十塚はもう一度口にした。麦也は服を適当に直し、皺の寄ったシャツを伸ばした。アイロンをかけるのは楠葉だ。 「お邪魔しました」  怒鳴られそうな雰囲気に、麦也は彼の内股を落ちていく白筋から目を逸らした。ミツキと別れたピンク街を探したが見当たらず、車を停めたデパートの立体駐車場に向かった。ミツキの車はまだそこに停まっていた。安堵しながら傍に座って待つ。妹と弟の死体を埋めたときも新しい父親とともに母親は日が暮れりまで出掛けていった。埋め終わってそこに留まり、母親が迎えに来たときの落胆の顔を、暗闇と強いライトの中で覚えている。日が暮れていくが、繁華街は山とは違い明るかった。 「クソガキ!」  ミツキの声に麦也は顔を上げ、飛び付いた。罵詈雑言も耳に入らなかった。あの時とは違うのだと知る。何度か思い出すことが今まであった。時を経るたびに、もしかしたら一度は母親とともに新しい父親は自宅アパートに帰ったのではないかと疑った。そして罪悪感に苛まれた。母親は確かに迎えにきた。そのことに変わりはないというのに。 「ミツキさん、ミツキさん!」  喪服より黒く、線香よりも香水臭い身体に頬擦りする。先生を殴った相手に対して深い安堵を覚えた。ミツキはぎょっとした。 「クソガキ!クソガキ!クソガキ!帰るぞ、クソッタレ。性風俗(ゾクフー)行きたかったのによ、童貞ガキ!童貞!人権ねぇぞ」  ミツキはキィキィ言って車に麦也を押し込んだ。エンジンはすぐにかかったが、ミツキはハンドルに両腕をつけ通話をはじめた。ガキがどうだとか、雨村(あまむら)にどうだとか話していた。今までの楠葉やミツキのやり取りからいうと雨村は先生の苗字らしかった。彼はガミガミ文句を言いながら座席に足を上げ、靴と靴下を脱いだ。電話が切られ、不機嫌な顔が麦也に向く。 「そんなに痩せちまって、内臓ぶん奪られたんだろ、ガリガリじゃねぇか…ケツも2つに割られちまった!おめでたい脳味噌も持っていかれちまったんだな!可哀想に…クソガキが!てめぇはクソガキでもこちとらもう19の老衰ジジイなんだよ。若さを1日分ムダにしちまった。誘拐犯の臓器転売ヤーの脱税野郎がイキりやがってよぉ…」  ミツキはぶつぶつ言いながらシフトレバーを握った。麦也の足元にソックスと靴が放られる。シートベルトが締まり、車はピーピーいいながら後退した。

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