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第9話
先生の屋敷には楠葉がいた。冷たい顔をしてミツキを見る。それから麦也をみて厳しい表情を和らげた。
「それで?」
「知らね。内臓ちゃんと入ってるか見てやれよ。あの誘拐犯マジでやべぇぞ」
ミツキは厄介げに手を振って勝手に奥へ上がっていった。楠葉は嘆息し、三和土 に立ち尽くす麦也を中へ促した。
「大丈夫か」
「はい」
「話は"らる"から聞いてる」
「はい?」
麦也は訊ね返した。楠葉はまた「らる」と呟いた。首を傾げる。話が読めなかった。
「あいつだ。聞いていなかったか?久保門 光月 」
「ミツキさん?」
「誰だ?」
楠葉は美しい眉を顰めた。
「え、ミツキさんはミツキさんじゃないんですか?」
ミツキの入っていったキッチンルームを麦也は見つめる。楠葉は「違う」と言った。
「俺の妹の同級生だから間違いない」
「え?じゃあミツキって…」
「本名ではないな」
楠葉はそう言ってキッチンルームで騒いでいるミツキと名乗ったがミツキという名ではないらしい男のもとに向かった。彼は何か食べるものを探しているらしかった。麦也も追った。楠葉は鍋から赤いスープを盛り付け、麦也にまだ夕食が出来上がっていないことを告げた。ミツキと名乗った男はキッチンテーブルに頬杖をついていらいらしている。
「本当の名前くらい自分の口から教えてやったらどうだ」
「はぁ?てめぇ、言ったのかよカエリ!個人情報保護法違反だぞ、個人情報漏洩だ!犯罪者!ボクの情報売る気なんだろ!レイプされちゃう!性犯罪に加担しやがって!」
楠葉は慣れた様子で麦也に目配せした。風情のある木製の器が喚く男に出される。枝豆と玉ねぎ、鶏肉の浮かんだとろみのあるトマトスープが入っていた。
「素敵な名前だと思います」
「黙 ってろ、社交辞令野郎が。何が素敵な名前だ!騙されないからな!ラルだぞ、ラル。18までだろ、許されんのは!どうすんだよ、40、50になったらよぉ!光 と月 で光月 !ペットかボカぁ」
またキィキィと男はスープを啜りながら怒った。
「ではこのままミツキさんとお呼びしますね」
「ガキのくせに!ボクのこと言いくるめて詐欺に遭わす気なんだろ!」
「詐称野郎呼ばわりされなくてよかったな」
楠葉は洗い物をしていたらしく作業に戻った。
「うっせぇ!てめぇは蛙 に鯉 だろうが。和風で高尚な名前しやがって。高みの見物マウント大好きモラハラ野郎がよぉ。強者の理論振りかざし野郎だ、てめぇなんか」
麦也はミツキの隣に座る。彼は見向きもせずにキッチンチェアを引いて距離をとった。
「懐くなうぜぇ。ガキは嫌ぇなんだよ、あっち行け」
「ミツキさんのこと、新しいお父さんみたいだって言ってすみませんでした。全然違います。ミツキさんはちゃんと来てくれましたから」
「はぁ?きめぇな。自己完結すんなよ。やっぱ脳味噌持ってかれたんじゃね?」
彼は身体ごと麦也から逸らし、器と揃いの木製スプーンでトマト煮込みを口に運んだ。麦也はその姿に笑みを浮かべる。
「あの人は、知り合いです。僕があまりにも頼りないから心配してくれていたんです」
「ふーん。フツーに興味無 ッ」
ミツキは行儀悪くスープを掻き込んだ。
「ンじゃ帰るわ。あ~あ、性風俗 は行けねぇし靴擦れすっし、個人情報は売られっし詐欺には遭うし、ガキと関わるとろくなコトねぇな。童貞は疫病神だな、はっきり分からぁね。カエリぃ、絆創膏!」
食器を洗っている楠葉はゴム手袋を外そうとしたが、麦也は自分が探してくると言って絆創膏の場所を彼に訊ねた。ミツキはふらふらと風呂場に入って足を洗った。絆創膏はすぐに見つかり、ミツキへ届けた。彼は踵を擦り剥いていた。絆創膏を引っ手繰り、そこに貼る。
「あ~あ、ガキ!」
気に入らなそうに言葉で噛み付き、ミツキは尻を掻きながら玄関へ出て行った。
「僕はバクヤっていいます。本名は、爆弾に紅色に夜って書きます」
「14までだな。もう18だろ?老衰ジジイだな、天寿全うしろや!」
「24です」
「はぁ?」
絆創膏に気を留めながら彼は靴下を履いた。新しいもののようだが踵の布は擦れていた。
「駆けずり回ったんですか」
「っ煩 ぇな!別に走り回ってねぇし!てめぇみてぇなガキじゃねンだよ。年齢詐称野郎!何が24だ、クソガキ!そんなテ使って酒なりタバコなりやる気なんだろ、え?未成年飲酒野郎がイキりやがって、未成年喫煙野郎がよぉ。アルカスでヤニカスのチンカスかよ。成人してんなら黄ばんだ肺と肝臓のための国保くれぇ払えや」
大好きな罵倒を吐き散らし、ミツキは靴を履く。持主の足に慣らされた黒い革靴は高そうだったが麦也には良し悪しが分からなかった。
「また来る、来たくねぇけど。喋る肉便器に用足しに。てめぇはさっさと童貞卒業しろ!短小包茎!早漏!ゆるゆるアナニー野郎」
発作のようにぴゃあぴゃあ叫び帰っていった。キッチンルームに戻ると楠葉は濡れた皿を拭いていた。
「大変だったな」
「すみません」
「いいや。俺は何もしていない」
水気を奪われた皿がキッチンテーブルに重ねられていく。
「あの、先生は…このことを?」
「光月 は話していないようだったがな。部外者の俺からも話すつもりはない。解決したことだ」
食器を棚に戻すのを手伝い、楠葉は白身魚にパン粉をまぶす作業をはじめた。他にもシンクの横のスペースには野菜の入ったプラスチックの笊 が置かれていた。
「今日は泊まる。今夜あの人は帰って来ない」
「そうですか。よろしくお願いします、楠葉さん」
フライパンに油が引かれ、空のまま加熱されていく。その間楠葉は丹念にパン粉を付け、しなやかな手付きで熱くなった油に寝かせていった。
「アンタの考えはあの人の生き方と相応 うのか」
油がパン粉を纏った生の魚に騒ぎはじめた。楠葉は麦也に背を向けていたがぼんやりしている感じがした。
「分かりません」
「…そうか。そういうこともある、な…」
「きっと世間ではいけないことどころか、悪いことです。でも僕は、直感的に悪いことだと思えなかったんです。悪いことだと良識としてはあるのですけれど…糾弾する気も、微塵も…」
「変なことを聞いたな。人のモラルを問い質 そうとしたわけではないんだ。すまない」
微量の醤油がパン粉焼きに垂れていく。
「俺はあの人が、アンタと同じように大切だと思う。だから、あの人のことを知ったアンタを、もう外には放り出せない。光月 のやったことは軽率だった」
楠葉は黙り、麦也も特に返すことはなかった。
「別にアンタが自分から逃げ出したとはこれっぱかりも思っていない。誤解したなら言葉が足りなかった。ただ、人には自分でも解せない部分があるだろうから…そのことで悩むことも、また…」
相槌も打たなかったことに彼は何か意味を見出したらしかった。麦也のほうは誤解を抱いたつもりも疑われていたとも思わなかった。冷淡で薄情そうにみえて、実は楠葉が穏和で人の好いことを知っている。
「被害妄想過多のあいつのことだ、多少大袈裟な脚色も入っているだろうが誘拐されたと聞いた…それほどまでに誰かがアンタを気に掛けて、探しているのかと思うと…気に掛かることもある」
「あの人は、人の夫で、人の父親です。僕に感 けている暇なんてありません。たまたま久々に会ったものですから……何と言っても僕は先生が好きです。優しくて、いい匂いがして、冷たいですけど温かくて、硬いですけど柔らかくて。謎掛けみたいですけれど」
おそらくメカジキと思われる白身魚のパン粉焼きが裏返される。健やかさと儚さの共生した白い手が器用に菜箸を操る。離れて見ると透明感があったが、近くに寄ると油はねの火傷の跡がそばかすのように散り、荒れていた。麦也は楠葉といるとき、その手を眺めるのが好きだった。
「もちろん、楠葉さんのことも好きですよ。レイモンドさんのことも。ミツキさんのこともきっと好きになれると思います」
彼は大きさのある皿にサラダ菜を敷いた。紫キャベツと水菜の塊が丸く置かれ、トマトとブロッコリー、コーンが彩りを与えた。麦也は盛り付けられていく工程を眺めるのも大好きだった。キャベツサラダの横に残りもののポテトサラダが添えられる。楠葉は残り物を再利用することに躊躇いがあるらしく、かといって残飯を出すことも好まず、そういうときは詫びたが麦也はまったく気にしなかった。
「それは………いいや、ありがとう。そろそろ夕食にしよう」
皿の空いた部分にパン粉焼きが乗せられ、拉 げた感じが味わいのある平たい陶器の盛り鉢にチキンのトマト煮込みが注がれる。主食は雑穀米だった。市販の酢の物も出される。2人分並ぶ食器と対面に座る楠葉に嬉しくなった。
「僕、誰かとご飯食べるの好きです」
表情の乏しい相手は目を丸くした。
「だから今日は嬉しいな」
麦也が夕食を摂っている時間、作った本人は帰宅し、先生は自室に籠もっているか不在だった。屋敷に1人でなくてもキッチンルームでは1人だった。
「そうか」
「楠葉さんのご飯、すごく美味しいからそれだけで贅沢なのに…ですが、やっぱり、他の人と一緒だともっと嬉しいです」
「作り甲斐があるな」
楠葉は柔和な笑みを浮かべた。
◇
先生は朝早くに帰ってきて、寝ている麦也の唇にキスを落とした。匂いと感触に、シーツを握っていた手が動き、彼は目を覚ます。同時にベッドが軋み、隣で寝ていた楠葉が起き上がった。寝起きとは思えないほど隙がなかった。
「温順 しくしてた?お仕置きしてほしい?ん?」
大好きな白い手が麦也のさらさらした髪を頬や額から除け、耳元まで撫でていった。潤んだ目はふと楠葉を一瞥したが、また麦也に戻って頬にも口付ける。
「誰か来たのかい?」
「いいえ。光月 は来ましたが」
「ポチ、誰かと会った?」
先生は鼻を鳴らして麦也の頬を嗅いだ。首筋、胸元、腹に鼻先を沿わせ、屈んでいく。
「ここからえっちな匂いがするよ?」
肉体は麦也の知らないところでも起き上がっていた。脚の間は朝を悦んでいる。日差しを、或いは持主が大好きな麗男を、またはこの砲身を慈しむ美夫を拝もうとさえしている。彼の手が目覚めの漲 りに悪戯する。そこはこの屋敷に来た時からこの男の玩肉だった。大好きな先生がそこに手を伸ばしてしまえば、我慢など出来ず、あとは解放を目指すだけだった。
「ぁう…!」
「触ったらもっとえっちな匂いがしちゃうね?」
先生は猫撫で声を使って熱 り棒を揉んだ。楠葉は無言で、気配を殺し退室する。先生と麦也が作った世界から弾かれたのか、自ら逃げたのかも分からなかった。
「ほら、ド淫乱 なお汁、おれに飲ませて?」
股間を嗅いでいた艶やかな黒髪が持ち上がり、麦也の柔らかな頬にすべらかな頬を押し当てた。互いの頬肉が潰れ合う。先生の冷たい肌と低い体温は麦也を幸福に溺れさせた。息もできない。息をしたら死んでしまう、否、生き返ってしまう気がした。
「せんせぇ…」
白く細い腕が麦也をまたベッドに転ばせる。股間だけが起き上がり、三角形を作っていた。
「ほら、自分でちんちん出してみせなきゃ。腫れちゃってるね、痛いイタイだね?ポチ」
「ああ…せんせぇ、そんなぁ……恥ずかしいです、」
妖しく濡れた瞳をみると羞恥心の深みに好奇心が沸いた。理性から外れた両足は大きく開かれ、良識を逃した両手は陰部を晒した。ぶるるん、と馬の嘶 きのようにまだ膨張途中にも関わらず極めて太い雄砲が現れた。その図々しい出立ちは先生のほうが赤面してしまうくらいだった。その顔をみると、麦也の股はめきめきと脈を浮かせ、ぶるる、っと卑猥に揺れた。
「誰の匂いだろうね…?」
「ああ……先生…、先生…」
「自分でヌキヌキしちゃったのかなぁ?すごくえっちな匂いがするけど、どんなことして大量射精 したの?」
凶悪な鬼を棒状にしたような忌茎に先生の淑やかな指が絡んだ。
「ぁあ…ッ先生、先生…!先生の御手 がぁ…っ!」
麦也は絡んだだけの掌に自分で腰を振って生殖棒を辱めた。先生の手が蛞蝓 に犯されたようにぬとぬとと濡れていく。
「動かしてないのにちんちん動いてるよ、ポチ。どうしたのかな?」
「先生…!先生……!あぁっ!あぁっ、先生…!ごめんなしゃ……」
「えっちなポチもかわいいから許してあげる」
透明な汁が淫らに照る先生の手が、やっと、魔憑きと見紛うグロテスクな猥棒をいやらしく掴んだ。
「せんせ…っ、ああ…」
手淫は緩やかだった。一回一回送られる快感が腹奥まで染み入り、咀嚼する。
「先生…あ…あぅう…あぁ…」
腰が揺れた。先生の手相が作る不規則な襞に嬲られたくなる。遊ばれて弄ばれ、嗤われたい。先生の手技は宥めるようで、それが少し不穏でもあった。
「ぁあぅ…せんせ…?」
「おれにえっち汁、出したい?」
「ふぇ……先生…?」
「おれの中で、出したい?」
麦也は意味を理解するのに時間がかかった。その間も手淫は緩やかに続いた。蛇が巻き付いているのかと思うほど血管の目立つ穢棒はさらに禍々しくなる。この陋劣 な劣情の刃で先生の腹を貫けるはずがない。
「い、いけません…!先生を汚してしまいます…!」
「ポチは汚れてないのに、どうしておれが汚れるの?」
先生は麦也の禍肉亀頭に接吻する。
「だって、だって……」
「ポチは汚くないよ。ちんちんだけじゃなくて、ここもね」
尻の穴を押され、麦也は未知の感覚に襲われ、視界に火花を飛ばした。
「おれとポチの間には、大きな溝があるよ。おれとポチは違う人間で、価値観も思想も違くて、歳も境遇も生まれた場所も違う」
麦也は先生の白い手を探して、体温を重ねた。
「でもおれはポチのこと、好 き好 きなんだよ、レイくん風に言うとね…レイくん風に言うと…………おれ風に言えば、可愛いよ。すごく可愛い。ここで取っ捕まえておけないほど可愛い……」
先生の上に乗せたはずの手が引き抜かれ、今度は麦也の手が下に敷かれた。
「手、繋いでると、心の中読まれてるみたいで怖いよ。ポチはお手々繋ぐの好きだよね。おれの気持ち、分かる?」
「分かりません。でも僕の心ははっきりします」
小首を傾げ、潤んだ目が泣いているように見えた。麦也は今にも涙を落としそうな目元へ口付けたくなった。
「どんな気持ちになる?おれと手、繋いで」
「幸せだと思います。嬉しいと思います。いつか終わっちゃいそうで怖くなります。でも今のことしか考えられなくなっちゃいます。先生の匂い嗅ぐのも、先生の肌ぷにぷにするのも、止められなくなっちゃうんです。怖いのに」
重ねられた透明感のある薄い手が麦也の子供らしさを残した手を強く握った。
「祈ってて。フェラしてあげる。お祈りしながら、イきなよ。ねぇ、ポチ」
「え……そんなこと、できませ……ッ!」
「おれが昔読んだ本、イってるときの感覚こそが、悟りに近いって書いてあった。祈りながらイけば、悟れるかも知れないよ」
先生は大剛を扱きながら舌で刺激した。おおよそ人の口腔に収まるものではなかった。根元から最も太い中間部までを白い手の残像が覆った。
「ぁっあっ、先生ぇ…!」
黒い髪が乱れ、解 れ、耳に掛ける仕草を目にして爆棒はさらに質量を増した。咥えようとした口元だけが離れ、ピンク色の舌は裏表の質感を巧みに利用し、李 に似た冠を焦らした。
「まだ大きくなるの…?」
「ぁっあひゃぁ…」
「女の子のお腹の中にえっち汁出したら、すぐ赤ちゃんできそうなのにね。ポチが女の子みたいだねぇ?」
幼児に話すような声音と間延びした喋り方で、指遣いは容赦なかった。言葉をイメージし、麦也は白猫ムグラの腹に"えっち汁"を漏らす妄想をしてしまう。しかし瞬時に違う想像に切り替わった。新しい父親が、母親の腹の中に"えっち汁"を出す。母親の腹が膨らみ、新しい父親はその腹を殴る。妊娠キャンセル!妊娠キャンセル!と言って新しい父親は、母親の腹を何度も叩き、殴り、拳を入れる。
「そ、んなの…犯罪です!ああ…っ犯罪です、あっあっあ…!」
母親の呻めき声と抵抗を思い出して、麦也はどろどろの白濁ゼリーを予兆もなく宣告もなく先生の口に出した。頭の中は放った粘液よりも真っ白くなる。腹パンやっときゃガキできねぇから。妊娠キャンセルしてやるよ。魚臭ぇマンコだな。ガキがデキても、オレのじゃねぇから。ぽんぽんぽんぽん子供作って、犬猫みたいね。貧乏人はやることないからすぐ子供作る。あそこン家 、兄妹全部父親違うらしいよ?サカりのついた猿でもあるまいし!昨日もパパとママ、あんあんお盛 んだったね?子供の前でヤってるんだって信じらんない。ゴム買う金もないんだろ、堕ろす金もないけど。文字通りのson of a bitchじゃないすか。少子化対策に貢献してるじゃん、でもろくな大人にならなそ。お前はうちのコドモじゃない、甘えるな。
麦也は天井を見上げて静止していた。男の性器を女の股の間に入れるのは暴力だ。巨悪だ。犯罪だ。それならば、男の性器を男の脚の間に挿れるのも大罪だ。悪だ。暴力に他ならない。麦也は飛び起きた。
「ポチ…?」
「セックスは最悪です。僕は…許されるでしょうか…?」
「許されなかったら?」
先生は数度に分けて嚥下した。咳払いもしている。
「なんてことだ、なんてことだ…僕は…セックスしてしまいました!先生、許してください、許してください、セックスした僕を許してください、許して、許して、許して……」
「許すよ。誰かとセックスしたのなんて黙ってたって分かる。おれには」
情緒不安に陥りかける麦也を先生は労わった。
「あれが悟った感覚に近いのなら、やっぱり僕、こういうの嫌です…」
「そうかい。ごめんよ」
「―ちゃんがママに"責任汁"出すと、お腹パンチするの」
大好きな匂いに背中を摩られる。先生の呼吸に合わせ、深く息を整える。
「ママ、でも、もう新しい赤ちゃんいた。―ちゃんとじゃなくて、知らない男の人といた。御魂 と天羽 のことも忘れて、新しい赤ちゃん抱えてたの…」
先生は麦也を強く抱き締める。細い肩に麦也は頭を預けた。
「殺したの僕だけど、殺したくなかったよ。でもママにみてほしかった。―ちゃんと仲良くして欲しかった。お父さんと5人で暮らしたかった」
「そうだね」
「僕、いい子になりたかった。お父さんの子になりたかった」
「バクヤはとってもいい子だよ。いい子じゃなくたって、わるい子だって、おれはバクヤが大好き」
隠していることが、胸を強く圧迫した。吐いてしまいたい。嘔吐のように。しかしミツキのことを巻き込みたくなかった。関係のない楠葉まで飛火しかねない。
「先生、僕ね、僕…」
「バクヤ。おれはそんな馬鹿じゃないんだよ、実は。お前がおれに……そうだな、懺悔しないと苦しいのに、ある理由でそれができなくて苦しいのだとしたら……その苦しみが罰なんだから、おれは可愛いお前を糾弾したり咎めたり、詰問 したりなんてしないよ。だから、個人の罪悪感に囚われなくていい」
寝癖のついた髪を白い手櫛が梳いていく。
「気が変わった。お前のそんな姿をみたら、真相を知ることになんか何の価値もない。バクヤが言いたいのに言えなくて苦しいのが、おれも苦しいよ。だから話そうとしなくていい」
掌全体で後頭部を何度も何度も撫で下ろされる。
「先生…」
「今を生きよう。願ったって、ありがたいことだけれど、過去になんか戻れやしないんだから。そ、だから今やることは朝ごはんだよ。カエリが待ってるだろう?」
先生は密着を解き、麦也の両頬を挟むと左右にキスした。額と鼻先もぶつける。
「先生が大好き…」
言葉でわざわざ表明することが無駄なことに思えるほど込み上がる。先生に促され、レイモンドの形見を身に付けてからキッチンルームに移動した。バニラの匂いが漂っている。麦也の背を押すだけ押して引き返そとした先生を楠葉は呼び止めた。
「貴方も、コーヒー一杯くらい、お付き合いください」
まるで喫茶店のように彼はキッチンチェアに2人を促し、先生には薫るコーヒー、麦也には厚みのあるパンケーキとミルクティーを出した。楠葉も立ちながらマグを傾ける。それが写真集か雑誌のモデルのように様になっていた。
「こういう朝も悪くないね」
「むしろ長閑 で良いくらいです」
バナナが数切れ添えられたパンケーキにメープルシロップを垂らしながら麦也は2人のやりとりを眺めていた。楠葉は余ったらしいバナナの半分を先生に勧めたが、彼は首を振って断った。
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