10 / 14

第10話

◇  先生はコーヒーや葛湯などしか飲まなかったが麦也の食事の席に居るようになった。楠葉は彼等を置いてあまり使われていないリビングに移り、テレビを観たり新聞を読んだりしていた。インターホンが鳴り、彼は新聞紙を閉じ、来客を迎える。訪問したのは光月だった。足音がうるさく、故意的にそうなるよう歩いている感じがあった。キッチンルームに顔を出し、麦也と先生をみた。 「ガキ貸せよ」  先生は呑気にコーヒーを啜る。コロッケサンドを食べる麦也にミツキの大きな吊り目が向いた。彼はピアスもネックレスも付けず、オフホワイトのカットソーの上にネイビーのロングカーディガンを着ていた。ボトムスもダメージの入ったジーンズパンツではなく暗い色のウールのスラックスを履いている。くしゃくしゃにセットされていたはずの髪は櫛を入れて寝かせてある。ジャケットもカッターシャツもネクタイもなくフォーマルとは言い難かったが、この若者のカジュアルな服装よりは形式めいて、無理矢理優等生ぶったようなところがあった。 「何のために」 「うーん、野暮用?」 「君には野暮用しかないよね。それが何かって訊いているの」  麦也は2人の会話を横に咀嚼を続けた。そこに本人の意思はなく、持つ必要もなかった。それは彼が決めることではなかったからだ。 「授業参観…あんだよ。授業参観」  ミツキのぎゃあぎゃあとした喋り方は突然自信のない、(しお)らしいものに変わった。 「誰の。君の子供の?君の?」  先生の声音は刺々しかった。キッチンルームの出入口に立つ楠葉はミツキから顔を背ける。 「ボクの母ちゃんの腹から2年遅れで出てきたやつの」 「この子関係ある?カエリと行ったら?どう、カエリ」 「いいですよ」  楠葉は快諾し、麦也はコロッケサンドを頬張る。噛むたびにサクッ、サクッと響いた。ミツキは小さく唸った。名指しで誘われている本人はあまりにも我関せずといった面をしている。 「カエリじゃ、ダメなんだって…!」 「じゃあおれが一緒に行こうか」 「てめぇ等は目立つからダメだって言ってんだよ!」  ミツキはキィキィ喚いた。 「ガキはどうなんだよ!てめぇの意見聞いてんだよ、雑魚!小学校からやり直せや。義務教育の完全敗北だっつの」  彼は地団駄を踏んだ。先生は「うるさいよ…」と注意した。麦也は直接話を振られ、コロッケサンドを皿に置いた。 「僕の意思はありません」 「依存系メンヘラカノジョみてぇだな」 「同じようなものだよ、おれの可愛いキャベツちゃんなんだから。絶対にこの子を殴ったり怒鳴ったりしないって約束できるの、君」  先生はミツキのほうも見なかった。楠葉はゆっくり目を伏せ、床を凝視していた。麦也はその静かな美しさを帯びた憂いの美男子を何ともなく見ていた。思い出せそうで思い出せない単語を突き詰めるような、薬の嚥下が甘かったときのような、妙な引っ掛かる感じがあった。この問題を見方の違うレイモンドなら軽々と教えてくれそうな気がした。 「ボカぁいつだって優しかったよなぁガキ?」 「はい」  先生は目を丸くした。 「たまにゃカエリも雨村(あまむら)しぇんしぇ~と2人っきりになりてぇだろ?」  ミツキは冗談のように、まったく他意もなさそうで、それはただ自分に有利になるためだけのはったりめいた発言に過ぎなかったが、楠葉は吠えたのかと思うほどの勢いを持って「それはない」と否定した。キッチンルームは静まり返り、ミツキはニヤニヤといやらしい笑みを浮かべはじめた。先生はきょとんとした顔で、珍しく感情をみせた楠葉へ目を向ける。 「行こうぜ、ガキ。な、な、?」  空気の変わりようを麦也も感じ取る。 「行ってきたら、ポチ。いいよ。たまにはね」  先生は楠葉をぼんやりと捉えたままで、声にも意識が抜けていた。 「分かりました。行ってきます」  返事の代わりにまだコロッケサンドを食べている麦也の肩を抱く。  身支度を整え、ミツキの車に乗せられる。先生と楠葉の間に妙な硬さが介入するようになったことが気掛かりだった。2人のいる屋敷を窓から眺める。運転席にミツキが座り、シートベルトのシュルル…という高い音が軋んでいた。 「あ~、あ~、やべぇね。やべぇことになったよ」 「まずいんですか」 「かなりやべぇね。帰ってきたらガキがデキてるかもな」 「女の人が来るんですか?」  ミツキは麦也を無表情で一瞥した。車は乱暴に発進した。公道に出ると、振り回すような運転は途端に止んだ。ラジオは楠葉もリビングのテレビで観ていた猟奇殺人のことを読み上げていたが、ミツキはすぐに消してしまった。代わりにデスボイスの効いたヘビーメタルが流れ、それもすぐに切られた。ウィンカーと走音だけになる。互いに無音だった。大通りの赤信号で、ミツキは姿勢を直した。 「カエリは雨村に惚れてんの。気付いてねぇの、お前?」 「えっ!」 「ありゃ長ぇな、きっと。か~、甘酸っぺ。ぺっぺっ」  ミツキは戯けていたが、麦也のみた横顔はどこか真剣だった。 「ま、気付いてねぇフリしといてやれや。必死こいてあの家で隠してたんだろうよ、雨村しぇんしぇ~が色んな男とパコパコズッコンバッコンしてる間に。ああいうタイプはいきなり爆発するんだよな。顔立てんのがまぁ大変ってこった」 「ミツキさんは楠葉さんが好きなんですね」 「はぁ?ンだとクソガキ。ボカぁホモじゃねんだよ。ふざけたコト言ってんじゃねぇぞ、てめぇ。ふざけるのはそのめでたい(おつむ)だけにしてくれ」 「でも僕は、楠葉さんとは付き合いは浅いですけれど、優しくてかっこよくて好きです。先生も、ミツキさんのことも」  ミツキは「あ~」と低く独言(ひとりごち)た。 「お前、恋愛もしたことねぇのか」 「……分かんないです」  一瞬十塚のことが浮かばないでもなかった。同級生たちが浮かれていた季節の行事に共に参加したいと思ったのは、あの男ひとりで、かといって恋愛という大仰な単語の前では簡単に頷けなかった。 「あれも好き!これも好き!もっと好き!もっともっと好き!が許されると思うなよ浮気野郎。何股すりゃ気が済むんだよ、あ?童貞浮気野郎に人権ねぇから」  麦也は流れていく街並みを眺めていたが、白線の残像に目を落とした。 「ごめんなさい…」 「自首しろ!」 「そうしたいのは、山々なのですけど、僕は…」 「勉強しろや、雑魚!不倫は犯罪じゃねぇって胎児でも知ってるぞ。幼卒か?」  ミツキはキィキィと趣味の罵倒を愉しみ、車は田舎道へ入っていった。半日登山どころか数時間で登山できそうな小山がぽつりぽつりと空気のグラデーションで塗られていた。 「ぜってぇ騒いだり、大声出したり下品なこと言ったりすんなよ」  田園風景の中に学校があった。繁華街やその近辺では考えられない広い道路の脇に車が停められ、そこから学校まで歩いた。グリーンの網のかかるフェンスの奥で、校庭にたくさんの車が並んでいるのがみえた。開放されたグラウンドが駐車場らしかったがミツキは路上駐車を気にする様子もなく裏門から敷地に入っていった。ミツキはいつの間にか帽子を深く被っている。 「さっきの説明からすると、ミツキさんのご同胞(きょうだい)がいらっしゃるんですか」 「弟」  彼は緊張しているようだった。ぼそぼそと喋り、歩くのも遅いか速いかの極端だった。生徒玄関では受付のテーブルがあり、名簿と教職員を見た途端にミツキは麦也の腕を取って引き返した。 「どうしよう!」 「何がです?」 「弟に、ボクが来たことバレたくねぇンだよ」  挙動不審なミツキに麦也は首を捻った。 「何故です」 「そりゃあ……まぁ、あれだ。なんつーか、まぁ、色々あんだよ!」 「そうですか?でもあの名簿、別にご本人には見せないと思いますけどね。家庭には色々事情がありますから……ただ一応名前を控える必要があるだけで…あまりに怪しいと、もしかしたら確認されるってことはあるかも知れませんが」  ミツキは麦也をじとりと見つめ、それから溜息を吐いた。麦也を置いて、彼はかなり緊張した様子のままふたたび生徒玄関へ向かった。そして2分も経たないうちに戻ってくる。ミツキは首を振った。 「飯でも食って帰るかぁ」 「良いんですか、観に行かなくて」 「仕方(しゃー)ねぇよ。何食いてぇ?さすがに蕎麦とかは食わしてもらえねぇだろ?、少し行った山に蕎麦屋あんだよな」  彼の手が背中を叩いた。麦也は口の悪い連れを見上げた。朗らかに笑い、声は上擦っている。 「いいんですか、諦めちゃって。そんな簡単に退()けるようなことじゃないと思います」  ミツキは麦也の背中から手を下ろし、かっぽかっぽとブラウンの革靴を鳴らして数歩ほど先に行ってしまった。 「正直ホッとしてるトコもあんだわ。どっちでもアリでどっちでもザンネン。偶数しか頭に無さそうなお前には分からねぇかね」  振り向くこともせず、またかっぽかっぽと靴を鳴らして先に行ってしまう背中を麦也は躊躇いながらも追った。両腕を後頭部に当て、何事もなかった、擦り傷も負っていないというような態度で、かっぽかっぽ、かっぽかっぽと靴が鳴った。 「でも弟ですよ。家族ですよね…?」 「家族っつーか、まぁ、血は繋がってるな。血が繋がってるから、くそ厄介」 「どうして?」 「そーゆートコ。血が繋がってる家族なら何にもねぇと思ってるそーゆートコ。それが答えだぃな」  大体は怒鳴ったり罵倒で返してくるミツキの機嫌は少なくとも悪くはないらしかった。どうでも良さそうな投げやりで、諦めた人間の持つ穏やかさがそこにあった。 「レイモンドさんは、弟さんと派手な喧嘩をしたと話していました」 「あ~、丁場兄弟ってばその(みち)じゃそこそこ有名だったわな」  かっぽかっぽとネイビーのロングカーディガンが風にはためいた。 「僕にも弟がいました。生きていれば、ミツキさんと大体同じくらいです」 「ンじゃ死んだんか。でもボクの弟とお前の弟は違ぇだろ、性格も生まれも戸籍謄本も」  麦也たちはもう敷地から出てしまっていた。 「兄貴も違ぇ」  路上駐車した場所へ少し強くなった風にカーディガンを靡かせミツキは歩いた。繁華街のように駐車禁止の切符を切られることもなく、黒い車は水田と空を映していた。 「僕は、兄として、人として最低なことをしてしまったんです。でも弟がいたことは事実ですから、僕は今の貴方をそのまま放っておくことはできません。独り善がりなお節介でも、弟のことで何か躊躇っているなら…」 「最the低な兄?ボクも負けてねぇから」  車のロックが外れ、軽快な音とともにドアが開く。麦也も助手席に乗り込んだ。グローブボックスが開かれ、写真の束を渡される。そこには小学生くらいの少年が写っている。数年前の日付が刻まれていた。 「可愛いだろ。弟だ」  白い歯を見せ、陽気に笑っている。一枚一枚捲り写真の中で成長していく少年はどれも爛漫に笑っていた。サッカーやマラソン、釣りをしている。日焼けした肌や傷んで茶けた黒髪、張りのある体格は活発でスポーツマンの雰囲気があった。人懐こい子供の柴犬を思わせる。顔立ちはあまり似ていなかったが、笑った時と頬の上がり具合はよく似ていた。麦也が写真を()ている間、ミツキはハンドルを抱いてぼぅっと所在なく小山を視界に定めていた。 「素敵な弟さんですね」 「本当に社交辞令だけは一人前だな」  写真を返されたミツキはグローブボックスへ写真を戻し、シートベルトを締めた。 「羨ましく思います。元気な弟さんがいること。会えるのなら、多少無理をして、恥をかいてでも会ったほうがいいと思いますよ、僕は」  車は麦也の言葉に反して動き始めた。学校から離れていく。ミツキは無言だった。緩やかなカーブを描く郊外の殺風景な大通りに入って、運転手はやっと口を開いた。 「やっぱ、もっと別の根本(こんぽん)から、ボクとお前は違ぇよ。無理もしたくねぇ、恥もかきたくねぇ。そこまで立派な兄貴じゃねぇんだわ……ボクは」 「2歳くらいしか変わらないのでしょう?」 「何歳差かなんざ関係ねぇよ。兄弟に生まれちまった段階でな。小せぇ頃は仲良くても、歳喰ったら縄張り争いするオス猫どもみてぇになっちまうんだ、狭いところに男2人ってのぁな」 「そうですか?」  麦也にはあまり思い当たるところがなかった。ミツキは「そうなんだよ」と力を込めて答える。 「つまり喧嘩でもしたんですか?もっと、レイモンドさんのところとは違って…法的な?」 「全然違ぇよ。全然な。掠ってもいねぇよ」  ますます訳が分からなくなった。ミツキのほうが沈黙に耐えられなくなったのか、クラシック音楽が車内に流れ始める。 「お祈りが得意なら、ボクの弟に祈れや。誰に祈ってんだか知らねぇし、祈っていい神様なんだか知らねぇケド」 「はい」 「意味あんのかも、分からねぇケド」 「ミツキさんが弟さんを大切に思った、それが祈りなのかも知れません。他者がいなければ自己を信じられないよう、祈りも、他者の存在を認めることで自身を確立することなのかも知れないです」  うんざりしたような深く大きい溜息が隣から漏れた。 「祈るだの信じるだのは、思考放棄だ。ボクは今、弟とボクのことをお前に捨てた。考えることも向き合うこともやめた」 「無邪気な人間に祈りは必要ありません。悲しみのない人に…孤独でない人に…。求めているのなら、いいと思います。そうでなければ前に進めないのなら。嫌でも進むことになりますから」  車は小山の(ふもと)にある蕎麦屋の駐車場に停まる。砂利が敷かれ、上下によく揺れた。ミツキのシートベルトが外れ、彼はまたハンドルを抱いた。腕に顔を埋める。体調不良にも思えるその様を麦也は不安げにみていた。 「弟が…………――好きだ。くだらねぇコト言うなよ」  一言吐いて、ミツキはすばやく車から降りてしまった。麦也は形のない力で殴られたような感覚にすぐには動けなかった。車の外の運転手の顔は見えない。ネイビーのカーディガンが風に揺れている。どういう意味を持っているのか、分かっても理解に至れない。ただおそらく自分が先生や楠葉、レイモンドに向けているものとは異なった情念であることだけは麦也にも分かった。  麦也も車を降りた。ミツキはルーフに手を掛け、微風に浸っていた。繁華街では気付けない土と草の匂いが弱く鼻腔を通り抜ける。 「とろろ蕎麦にするかな…おいポチ公、遠慮せず食えや。ちゃんと食って、ちゃんと消費税納めろ」  先生が綺麗に梳かし、田舎の風が絡んだ髪をミツキは掻き乱した。暖簾をくぐり店へと入っていく。窓際の席に案内され、ミツキはメニュー表も見ずに窓奥の田園と鉄塔を望んでいた。麦也がなめこ蕎麦にすると「天ぷらも選べよ…」と譫言のように呟いた。それから我に帰り、誤魔化すように座り直した。 「天ぷらも食えや。竹でいいよな?松にして半分こっつにすっか?」 「竹にしていいですか」 「おっし」  ミツキは店員を呼ぶ。外面はいいようで、先生の屋敷でみせるような悪態と罵倒と嘲笑、威圧に満ちた様子はなかった。店員にもひとつひとつ礼を言っている。 「弟の高校受験で合格した時もここ寄ったんだよな。不合格でも寄るつもりだったケドな。舞茸の天ぷらが美味ぇんだ。塩でさ、食うの…」  相槌もうたず、返事もしなかった。話している相手はそれを求めていないような気がした。大きな吊り目は威勢を失い、また窓奥に目を投げた。 「ま、今度は卒業式にでもここに寄るだろ、父ちゃん母ちゃんとな。そん時はもっとすげぇステーキ屋とかかな、知らんケド」  運ばれてきた生わさびを鮫皮おろしで擂っていく。麦也はミツキに(なら)った。 「ンでボク等は、またここに来るってワケ。松はそん時に食わしてやる。エビ天が2本付いてんだ」 「はい。楽しみにしていますね」 「それは……社交辞令じゃねぇって信じてるぜ」  ミツキはわさびを擂るのに飽きた、というよりかは頭の放熱でもするかのようにまた窓の外を見ていた。  屋敷に帰ると、ミツキは先生と部屋に籠り、麦也は楠葉とキッチンルームで食事の支度を手伝った。楠葉はいつにもなく無言で、キャベツに肉団子を包んでいく。リズム良く、そして綺麗にキャベツが巻かれていく。怒っているのかと思うほど不穏な感じがした。彼の向かいにある壁からは、あんっあんっと先生の高い声が上がった。麦也は何か話さねばと思い、今日あったことを話した。一部は伏せるほかなかった。まだ麦也の中でもよく分からないことだった。話を止めたり、言葉の合間に、先生のあんっと鳴く声が挟まる。そこに楠葉の相槌や返事が重なった。彼は白い顔をして、美しいことに変わりはなかったがやはり陰気で、長く濃い睫毛が切れ長の瞳に影を作った。そしてさらに、そこに痛々しさを乞うているような健やかな憂いと、踏み躪られて光る類いの屈強な(なまめ)かしさと悲劇的な逞しさのある色香も漂いはじめていた。麦也は一方的な気恥ずかしさに楠葉を見られなくなった。それでも会話を続けるのが使命とばかりに、その背中に話しかける。 「楠葉さんはミツキさんの弟さんをご存知ですか」 「ああ。明るい人気者だな、絵に描いたような。雰囲気は少し丁場に似ている。もっと無邪気だが。素直で、屈託がない」  生のロールキャベツが鍋に放られていく。それにも作り手のリズムがあった。壁越しのあんっあんっと鳴く声は止まない。 「兄弟ぐるみで仲が良いんですね」 「仲が良いのかまでは肯定できないが、幼馴染みたいなものだったからな。それなりの付き合いはあった」  絶頂を迎えた甘く高い声が響く。麦也の傍ではコンロに火を付ける音がした。 「宝井」 「はい」 「今日はリビングのほうで食べるといい」 「はい」  了承とほぼ同時にキッチンルームを先生が通った。凍えたように歯がガチ、ガチと鳴った。麦也のほうも見ず、声をかけることもなく、跛行するように歩き、腕は掴める物を探してでもいるのか前に出ていた。喉から漏れる息吹が木枯らしに似ていた。怪物だった。明るい場所にいるというのに目元は見えず、歯は頻りにがち、がち、と打ち鳴らされている。麦也は楠葉を見たが、彼は魚肉ソーセージの皮を剥き、まるで気付いてもいないようで雇主へ背を向けて作業を続ける。オレンジ色のテープが剥がれ、魚肉ソーセージはまな板の上で斬られていく。妖怪は風呂場に消えていく。楠葉の手の中で生卵がどすん、と音を立て、割られた。黄身と白身が溶かされていく。くちゃくちゃ、と卵液にされていく。ミツキも後からやってきた。目元を擦りながら、楠葉に詫びるようなことを口にした。そして麦也を捉え、納税しろよ、と言った。熱したフライパンにすでに切られていたタマネギが騒然とした。菜箸が嬲っていく。脱税を忌み嫌い、納税を崇める者も風呂場に消えていく。 「テレビでも観るか。DVDを借りてある」  楠葉はコンロの火を止めた。調理はまだ途中で鍋は沸騰もせず、玉ねぎは生焼けで白ずんだままだった。 「先生のお傍に居ます。ミツキさんをお見送りしたいです」  コンロの前に立つ美男子は振り向く。 「宝井…」 「先生に食べさせてもらうことで、僕は摂理の中で生きています。それなら、先生の摂理の傍にいることが僕の務めです」 「分かった。でも見てやるな。それだけは…守ってくれ」  楠葉はまた凄絶(せいぜつ)な色気を醸し、麦也に目隠しや首輪を嵌めた。楠葉にバスルームへ案内される。音の響きの違いでそれが分かった。しかし1枚、扉を隔てている。べちち…という水音は浴室からで、ここは脱衣所だった。四つ這いになって麦也は浴室のドアを開いた。みちち…じゅるる……と音がする。どこからか隙間風が漏れているようだった。  みちち…、びち、びちち……ばちゅん、ごきゅ…  麦也は写真の少年を想った。名も声も知らないが写真のひとつひとつの表情は鮮明で、そこに蕎麦屋での会話が蘇ると、目頭が熱くなった。  じゅりゅりゅ…べち、みちぃ……ごきゅ…  運ばれてきたばかりの海老の天ぷらが2つ添えられた。弟にやるのが癖だったのだと話していた。今度来た時に舞茸の天ぷらをもらうという条件が付いた。帰り道は無言だった。駐車場でも彼は田園風景の中にぽつりとある高校を眺めていた。  ごきゅ…ごきゅ、じゅるる、みちち…にちゅ、  隙間風が吹き止んだ。麦也の脳裏には写真の少年よりも、蕎麦屋で窓奥をぼんやり眺める若い男の姿のほうが色鮮やかに留まっていた。

ともだちにシェアしよう!