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第11話

◇  許して、許して、と先生は身を伏せて嗚咽の中で謝った。麦也は寝たふりをしていたが居た堪れなくなって、土下座している細い身体に抱き付く。すでに朝に近かった。少し前に楠葉が帰ったところだった。 「ポチ…」  涙で濡れ、顔中に髪が張り付いている。麦也は一房ひとふさを丁寧に除けた。 「先生が許されるよう祈ります」 「光月(らる)くんのために祈って…今は……」  組んだ手を生温かく儚げな手が包んだ。長い睫毛から大粒の涙が歪み、迫り出し、頬に筋を引いていく。 「どうしておれにも、信仰なんてものがあるんだろう…?」  彼は麦也の胸にしがみついて号泣した。軽く反発も質量もない硬い身体を麦也は力いっぱい抱き締めた。 「僕が傍にいます。ずっとお傍にいます。健やかなる時も、病める時も、傍にいることを誓います」  顔を上げた先生の目元に唇を押し当てる。小さな頃に観たドラマのワンシーンをなぞっていることに気付く。眼前の黒く潤んだ目が細まった。長くしなやかな腕が24の男の中では小さな背中に回る。 「野獣に愛は要らないんだ…」 「貴方は野獣ではありません。僕が証明します。僕みたいな"白痴の片輪"を愛してくれた貴方が、野獣のはずがないんです。そうでなければ、野獣には愛があることになります。果たして人はそれを愛と呼ぶでしょうか」 「お前は欲しい言葉をくれるね…?」  今度は先生のほうから麦也にキスをした。眉間と鼻先と口角に3つ。麦也もまた先生の頬や顎に接吻した。 「光月(らる)くんは、お前と思い出の店に行けて嬉しかったそうだよ。おれからも礼を言うよ、ありがとう」 「先生は弟さんのこと、何かご存知ですか」 「詳しくは知らないけれど、何か人に言いたくない家庭の事情があったみたいだ。やたらと人に噛み付くのも、弱い自分を守るのに必死だったからだったんだと思う……彼は、暴力的で活発で…バカだけど頭は良い、レイくんとはまた別で元気な子だったな…」  涙はもう乾いていた。嗄れた声で先生はミツキを悼んだ。鼻を啜る音がした。先生の肩を抱いて、麦也は祈った。やがて先生は寝息を立て、麦也もゆっくりと枕になった。乱れた掛布団を引っ張り、先生を覆う。シャンプーの香る半乾きの髪に口付けた。  しかし目が覚めるとベッドに先生の姿はなく、掛布団は綺麗に麦也の身体を隠していた。 「おはよう」  第三者の声に飛び上がると、部屋の隅に楠葉が立っていた。麦也は顔を両手で覆った。 「おはようございます。先生は…どちらへ?」 「野暮用だそうだ。朝食ができたぞ」 「あ、ありがとうございます。楠葉さん、随分早いんですね。ちゃんと休んでますか?お節介かも、知れないですけど…」  彼は目が点になった。そして形良い小さな口に柔和な笑みが浮かぶ。 「心配してくれてありがとう。大丈夫だ。合間を縫って休んでいるから」  キッチンテーブルにはブルスケッタとスクランブルエッグ、ウィンナー、ミニサラダがワンプレートに盛られ、クルトン入りコーンスープも付いていた。楠葉は対面に座り、ホットミルクかブレベの入ったマグを握っていた。 「いただきます」 「召し上がってくれ」  いつも通りの朝だった。手の込んだ料理はかなり気を遣われているらしく味付けは薄めだが、しかし麦也には絶妙な具合だった。麦也も単純な料理なら決して下手ではなかったが味付けは雑な傾向があった。 「美味しいです。すごくオシャレ」  ブルスケッタは刻みバジルとガーリック風味のペーストを塗って焼いた堅めのパンに赤々としたトマトが乗せられたもので、小さいものが3つほど並んでいた。味だけでなく、見た目や匂いまで愉しめた。 「作り甲斐がある」  麦也は美味い朝飯を食らいながら、オレンジ色のマグを握る手を何気なく見ていた。そばかすと見紛う小さな点々とした火傷の痕を見ると、多くを語らない楠葉の歴史を感じた気がして好きだった。 「昨日は会えなかったみたいだが、光月(らる)の弟は、(さんずい)に、光に月と書いて、洸月(こうる)という」 「僕の弟と一字違いですね。御魂(そうる)っていうんです」  楠葉は苦笑する。企んでいるげな笑みが残り、美しい唇が開いた。 「ちなみに俺の妹はエリカ」  麦也は楠葉が自身のことについて語るのが嬉しくなった。少し前のめりになったことで彼は呆気にとられた様子で、俯いてしまう。 「思えば変な関係だった。小さい頃は…妹と光月(らる)で彼を取り合う感じだったな。洸月(こうる)は……いいや、その、不毛な思い出話だった。気にしないでくれ」 「聞きたいです、楠葉さんのお話」  楠葉は何か衝撃を受けたような顔で朝食を食らう麦也を見つめた。柔和な笑みも、苦笑さえない。 「ミツキさんも、弟さんに祈るよう言っていました」  彼はまだ目を合わせようとせず、長い睫毛に囲まれたガラス玉は泳いでいる。 「光月(らる)は……弟に対して、何か、変だった。仲が悪いと思っていた。海外に行ったのも、それが原因だと思っていたが、どうやら俺の勘違いだったらしい。洸月(こうる)もそれを気にしてはいたが…元々光月はあまり人に心を開かない。おそらく家族にも…だから海外に行った本当の理由を、弟であっても話すはずがなかったんだな」  麦也は車内で聞いた呻めきに似た告白がふと耳の奥から再び聞こえてきた。しかし納得には至れなかった。ただ麦也は己の痴をある程度知っていた。納得までは至らないが、自身の経験不足から、そういうものなのだろうという記号的で漠然とした理解で納めた。 「仲が悪かったわけではなくて、安心した」  瀟洒(しょうしゃ)出汁(だし)の効いたスクランブルエッグが麦也の口の中で溶けた。形を残していないチーズの緩やかな酸味が旨味と絡み合う。 「どうして光月が宝井に興味を示したのか、分かる気がする。アンタは…、たまに、洸月に似ている…ほんの、たまに」  ブルスケッタがバリバリ…と噛み千切られた。写真に載っていた少年は、麦也の自己評価である"白痴で片輪の醜男(ぶおとこ)"とは正反対だった。利発で壮健な快男児といったところでそこに自分と重なる部分は無いように思えた。意外な世辞に上手く返す(すべ)がない。 「洸月の卒業式には、天ぷらを作ってやる。だからアンタも付き合ってくれ。それがあいつなりの祝い方で、俺なりの弔い方なら…」 「喜んで」  彼は少し照れ臭そうだった。  夕方に先生は帰ってきた。レイモンドのために設けられたスペースの横に新たな仏具が置かれた。写真の入っていない、中の紙も抜かれた一面コルクの写真スタンドが添えられる。麦也は先生と並んで合掌した。楠葉はその様を、主に先生を熱っぽく見つめていた。麦也が何度かそれを窺い見ても気付かないほど、ただ一直線に先生の姿を見澄まし、苦しげに綺麗な形の眉が皺を浅く刻んでいる。ミツキが簡単に言葉にした、麦也の抱く楠葉へのあの違和感が途端に横から迫る壁のように感じられ、それは今、麦也を潰す間際まで来ているような心地がした。見つめているだけの姿に焦れた。楠葉と先生を2人にしなければならない義務が彼の中に発生する。 「ごめんね、ずっと家空けちゃって。夜まで遊ぼうね、ポチ」  きょろきょろと落ち着きのない麦也の頭を抱き寄せる。大好きな先生の匂いがした。 「ありがとう、カエリ。ポチが世話になったね」 「いいえ…」  呼ばれた彼は目を見開いた。先生は困惑気味に笑みを作り、麦也はそれを見上げた。 「おいで麦也」  先生は麦也の頭を抱き寄せ、小脇に抱えたまま部屋に促した。ベッドで寝転びながらぬいぐるみのように扱われると深い幸福感に溺れる。髪や頬をくすぐり撫で、先生の手は麦也の股間へ伸びた。 「自分で抜いた?」  麦也は首を振る。先生は優しく微笑んだ。 「ポチの可愛いここが破裂しちゃうよ?若いんだから」  薄く硬い手は性器全体を掬い、下から上へ摩擦した。下腹部に甘やかな疼痛の小火が灯される。 「ぁっ…、先生、あの…っ、」  向かい合って、互いに目を覗き込みながら淫事に耽る。快感に喉と身体を震わせる麦也に先生は唇を落とす。啄まれるのも大好きだった。布越しに扱かれ、動いている先生の掌に自ら擦り付けた。しかし楠葉のことが気になり、燃え滾りそうだった股はそれ以上の淫らを許さなかった。 「なぁに?言ってごらん」  先生は少し意地悪く微笑んで、燻りを煽る指を止める。 「あの…、あの、えっと……」  楠葉のことをどう伝えていいか分からなかった。ミツキからは口止めされている。しかし申し訳なさが先行した。先生はあの真っ直ぐな熱い視線に気付いているのだろうか。 「あの、僕………えっと、」 「言いにくいことかな?」  頷いてしまうのは楽だったが、そうなるともう薄情することしか出来なくなりそうで、麦也は縦にも横にも首を振れなかった。先生は俯いた彼に何度も接吻する。 「楠葉さんのこと……」 「カエリ?カエリがどうしたの?喧嘩した?あまり想像つかないけれど」  下を向いている柔肌を先生の冷たい手に包まれ、麦也は先生の目と合わせられる。 「あの、………」 「好きになっちゃった?カエリのこと。カッコイイもんね?ん?取り持とうか」  言葉を詰まらせている間も先生の優しい口唇は麦也の額や頬に忙しなくキスした。 「ち、違います!全然違います!あ、あっ、でも楠葉さんのことは好きですよ、でも、でも、…そうではなくて………」 「うん…?じゃあ…何だろう?」  細くしなやかな腕に強く抱擁され、肺いっぱいに先生の香りを吸い込んだ。身体中で大好きな人を感じるとすべてがどうでも良くなってしまう。何を言おうとして誰のことを気に掛けていたのかも吹き飛びそうだった。 「びっくりした」  長い脚が麦也の腿に絡んだ。抱き枕にされている。悦びが駆け巡って頭が沸騰した。視界は白く明滅し、心臓は跳ね上がる。反して気分は凪ぎ、むしろ現状に対して怠慢ですらあった。 「妬いちゃうよ、ポチ」  そしてまた「妬いちゃう」と付け加え、目の前の生きた抱き枕に唇の形が歪むほど強くキスした。 「おれが見ていてあげるから、自分でして。ちゃんとおれのことだけ考えて、おれだけ見て?」  喋りながらある程度のところまで先生が育てた。熱瘤を愛でる手を麦也は押さえた。先生は首を傾げた。触れた手が繋がれていく。 「先生……」 「えっちなことはポチが思うような悪いことじゃないよ。ちゃんと、好きな人と、お互いの気持ちがあれば、素敵なことなんだよ。人間の文化で交尾と繁殖だけじゃ、虚しいだろう?」  麦也は頷いた。しかしまだ躊躇いがあった。 「キスする?」 「したいです…」 「じゃあキスして。ちゃんとおれにキスしてるって思いながらキスして」  麦也はこくりと頷いて首を伸ばす。言われなくても、思い描く相手は白猫ムグラと先生しかいなかった。そして今、目の前にはその先生がいる。 「先生、大好き」  (おそれ)はあったが唇を塞いだ。溶けたチョコレートのような柔らかさで、しかしその冷たさは先生らしかった。自覚なく日常的に、頭の中には芯が通っているのだと知る。それがよく煮込んだキャベツのように溶け広がっていく。触れただけの口付けはうたた寝に似ていた。 「もういいの?」 「あ、ぅ…」 「お口セックス、しよ?」  先生は離れた唇を追ってきた。額と鼻先は羽虫一匹も通さないほど隙間を無くす。 「おれはポチとセックスしたいよ。ポチが思ってるセックスと、おれがポチとしたいセックスは違うから」  麦也は目瞬くことしかできなかった。 「楠葉さんの……こと、」  唇が湿った。先生が視界いっぱいに入り、焦点も合わなくなる。 「だめ」 「先生…」 「ポチはおれの。おれはポチの」  後頭部に掌が添えられ、口付けは深まった。狭い空間で絡み合い、縺れる舌にミツキから聞いた楠葉の恋慕が薄らいでいく。唇は角度を変え、舌は上下、左右に立場が変わる。 「ん……っ、ひぇんひぇ……っ、」  混ざった唾液が顎まで滴り落ちた。先生は答えるように麦也の服を強く握る。下腹部は硬く大きく張り詰めた。濃密に接したところから漏れる水音に麦也は恥ずかしくなった。膨張を悟られ、先生の手は身体を撫でながら(みなぎ)りに移動する。 「はぅっ…」 「おれにはポチがいればいいの…」  キスが終わった。それでも2人の間には短かな時間、橋が架かっていた。先生は泣き言を漏らすような声音で呟いた。 「カエリとはセックスするけど、彼の気持ちには応えられない。あの子もこの関係で、満足してるはずだから……」  先生は麦也をさらに抱き寄せる。麦也は安堵と共に、酷なことをしてしまったような気がした。狼狽した。ふたたび唇を塞がれ、口で戯れる。誘うような舌技に麦也からも先生の中を漁った。巨大な燻りを宥め煽っていた手が止まる。麦也の服をしっかりと握り、離れないようにしがみついた。 「ん……っ、ぁ、」  砂糖とは違う、身体の核まで染み渡るような甘さと、激しく沸き起こる処理の追い付かない希求に先生を粉砕しそうになるほど麦也も彼を腕の中に留めた。先生の匂いと先生の味と体温、肉感、漏れ出る切ない声。生まれた時から欠け、死んでも手に入らないものすべてが揃ってしまった。このままここで死んでもいいとすら思った。人に定められ義務付けられた死という役割が決して回避すべき恐れでないのだと、説かれるように理解する。むしろ何故恐れていたのか、一度きりの人生に於いて、このような終わり方をしないからだ。互いに死ぬまで、蚕蛾(カイコガ)のように白いシーツの中で繋がっていたかった。シーツを蹴り、敷いたり敷かれたりしながらベッドを軋ませた。口吻の接合は解けなかった。もどかしい蛹は許容範囲を超えた満足に爆ぜてしまう。脳天から爪先まで緩やかな、しかし深く濃い快感に満ち満ちる。かくかくとだらしなく揺れた腰で、先生の腕がだらりと投げ出された。永遠に続くと思われた、むしろ永遠だと思っていた一瞬が終わりを告げる。しかし透明な糸はまだ2人を結んだままだった。 「可愛い…」 「せんせ……僕…」 「うん……?」 「パンツ、洗ってきます」  洗濯するのはハウスキーパーの楠葉だった。しかし遺精を洗わせるわけにもいかなかった。だが先生は起き上がろうとする麦也の手を引いた。もう一度シーツに転がされる。 「ポチ……」  先生は麦也の両手を縫い留め、上に乗った。無数の接吻が降り注ぐ。 「おれのポチ」  「せんせ…またパンツ、汚しちゃいそうです……」 「おれも、ポチに汚されたい」  麦也は首を振った。あってはならないことだ。清らかな先生を、生臭い粘液と理性を手放した醜悪な欲求の生殖汁の汚物で焼くなど。 「おれが、カエリと"する"ところ、観ていてくれる?」  こくんと麦也は頷いた。先生は徐ろに下を脱ぎ始めた。 「慣らして…ポチ。ポチにして欲しい」  四つ這いになり白く透明な臀部が持ち上がる。ライチに似ていた。噛み付けば甘い蜜が溢れそうだった。何人もの男に叩かれ、弾かれ、ぶつけられた尻は綺麗な丸みを描いている。双丘の奥には縦に割れた窄まりが小さく控えていた。慎ましやかではあったものの淡い紫色を帯び、それは彼の何度となく重ねてきた交接や激しく乱暴な欲棒の出入りを思い起こさせ淫猥な空気を纏っていた。楠葉は澄ました顔をして、胸の内に恋慕を秘めておきながらこの淫奔極まりない艶裂を目にしているのかと思うと、麦也は訳も分からず昂った。それだけでなく、ここからどろどろと溢れ出て流れ落ちる様々な男の妖液を表情の乏しいあの美男子が恋心を携えながら処理しているのかと考えると、肉体から煙が出そうなほどの興奮を覚えた。楠葉の心境を自身に馳せ、麦也は先生のいやらしい匂いの籠った薄肌を嗅ぐ。 「ポチ…?何し、て……」  洗剤やシャンプーの混ざらない純な先生の匂いがした。鼻を鳴らして嗅いだ。嗅ぎ残すことがないよう、もう誰にも嗅がれないよう、先生の澄んだ匂いをすべて嗅いでしまいたい。一息も残したくなかった。 「だめっ……嗅がないで、ぁ、ぃや……ポチぃ……っ!」 「先生の匂いがします。先生……、先生、素敵です、先生!」  鼻の頭が皮膚に接した。先程の濃厚な口付けの延長よろしく麦也は先生の下の腔に唇を当てた。 「あ、恥ずかし……ポチ、そんな、舐めるなんて……」  男を何人も、道具を何度も擦った渦に麦也は舌を這わせた。震える膝と引き攣る白腿の間でわずかに燻んだ色の陰部が脈を打って膨らんでいる。 「先生……大好き。すごく綺麗」 「ぁ…、ポ、チ……っ!指で、い……っあ、」  舌先を尖らせて先生の中に入っていく。しかしまだ硬かった。皺のひとつひとつに唾液をまぶし、侵入を拒む秘裂にも機嫌を取るように舐め摩った。 「ポチ、……っポチ!指で、して……?」  麦也は聞かなかった。秘奥を探るため尻に置いていた手に先生の薄く冷めた手が乗る。 「舐めたいです」 「あ……っ、ポチ!くすぐった……っ」 「先生の味がしまひゅ。美味(おい)ひぃれす…」  唇でもくすぐった。蠢く淫裂に舌を挿し込む。そのまま奥まで押し進める。引き抜かれるかと思うほど強く締め付けられる。揉まれるように弛緩し、先生の身体が傾いた。 「ぁっ…ああ…っ!」  逃げようとする先生の白い尻を追った。もう一度先生の中を味わおうとしたが腰の辺りに治りかけの痣を見つける。繋いでいないほうの手でそこを撫でた。 「指、入れますね」  麦也は自分の爪を見た。先生に切られるだけでなく、二十本すべての爪を磨かれてもいる。大好きな先生の大事な箇所を傷付けない程度の長さだった。十塚に跨られた時の、性器を伝った冷たさは想像しただけで腹の底の臓物から捲られるような苦しさがあった。 「待って、ポチ……も、大丈夫だから……」 「ご、ごめんなさい。下手くそで…研鑽(けんさん)を積みます。もっと……」  指が秘裂に突き立てられようとした時、先生慄き起き上がった。両手の指を丸め、麦也は謝る。 「このままされたら、またイっちゃうし……ポチのポチ太郎、欲しくなっちゃうから……」  疲れた様子で彼は麦也に倒れ、子供らしさの残る肩に首を預ける。 「でもセックスはしたくないんだよね?無理しないで、正直に答えて」  渋く低い呻めき声と、目に痛いライトの中で逆光していた汗に濡れる浅黒い肌、筋肉の浮かんで影を作る腿がフラッシュバックする。 「先生のこと……汚したくないです。先生、僕、先生のこと大好きだから、汚したくないです。やっぱり僕のおちんちんは汚くて、先生のお腹に入れるなんてできません」  長い指が後頭部に絡む。 「そう。分かった。ありがとう。大事にしてくれて。おれもバクヤが大好きだよ」  ほんの短い間、先生は麦也の頭と背中をぽん、ぽんと叩いた。 「ほら、パンツを洗ってくるんだったね。引き止めちゃってごめんよ」 「楠葉さんを呼んできますね」 「ううん、少しだけ1人になりたい」  先生は首を振った。麦也は少し疲れた感じのある大好きな人のことが気にはなったが、パンツを洗いに部屋を出た。キッチンルームからは夕飯の匂いがした。楠葉は小皿で味見をしているところだった。その日常的な一部が見事なほど様になった。 「まだ夕食は出来ていない」 「はい。ありがとうございます」  キッチンルームを通らなければ風呂場には行けず、そのために楠葉に気を遣わせた。脱衣所でパンツを脱いで手洗いする。それから替えの下着を持って来ていないことに気付いた。すると脱衣所のドアが開き、隙間から求めていたものが放り投げられる。礼を述べるのも忘れて二択に戸惑った。脱衣所を出るとキッチンルームに楠葉の姿はなかった。コンロの火は消されている。先生の部屋の斜向かいにあるリビングのソファーで横になった。先生の匂いがまだ手に残っている。鼻を鳴らして何度も嗅いだ。底無しの幸福感が湧き起こり、犬の真似事をしながら猫のように丸くなって眠った。どれくらいの時間が経ったのか分からないほど深く寝ていた。「ご飯だよ、ポチ」と丸くなりきれなかった空間に先生は割り込み、彼の寝顔を覗く。目が開いたことを確認すると、唇が柔らかく弾んだ。 「ご飯。ちゃんと食べないと、お腹減るだろう?」 「ごめんなさい、寝ていました」  先生に連れられキッチンルームに向かう途中の廊下で楠葉に気付く。彼は玄関で靴を履き、もう帰るところだった。 「楠葉さん!お疲れ様でございました。夕食、いただきますね」 「ああ、お疲れ。美味く出来ているといいが。召し上がってくれ」  彼の態度は変わらなかったが、気怠げで他人行儀な妖しさが麦也との間に漂っていた。肉体の疲労とはまた別の、視覚的には説明できない、直感的で不可視な疲労が窺えた。その有様は艶めいてすらいた。野菜を切る手が、肉を揉む指が、鍋をかき混ぜるその腕が、洗濯物を畳み、卒なく器用に効率よく掃除に勤しむその腰が、脚が先生を抱いたのだと思うと麦也は燃え盛る悦びを自覚せざるを得なかった。しかしそこには後ろ暗さが伴っている。

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