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第12話

 味の染みたインゲンとニンジンが鮮やかな肉じゃがと鯵の塩焼き、油揚げの味噌汁に沢庵と、市販の杏仁豆腐が夕食だった。横では先生がハーブティーを飲み、食卓を共にした。会話が無いこともあったが、それでも心地良かった。先生の息吹、先生の衣擦れ、先生の物音、先生の微笑み、先生の小さな何気ない問い。楠葉の作る美味い飯がさらに美味しく感じられる。長年望んだものが手に入った。 「今日は一緒にお風呂入ろうか」 「はい!」  先生が微笑んだ。味覚は変わらず楠葉の作った飯は美味かったが、さらに美味しいと感じられた。芋が煮崩れしないよう入れられた梅干しの甘酸っぱさを帯びている。 「背中洗いっこしようね」 「はい!」  一緒に風呂に入るのも好きだった。中でも先生の少し硬い指先で洗髪されるのが特に好きだった。夕食を終え、空いた食器を水に浸す。麦也の胃が落ち着くまでの間、先生は自室のベッドに座りぼんやりしていた。壁と天井の境目ばかり眺め、何か考えているようだった。麦也はその後ろで先生の香りがするシーツに寝転んだ。ころころと転がって大好きな人の活気のない後姿を見上げる。白く細い(おとがい)が振り返る。濡れた黒い瞳を麦也は胸元から身体を反らして仰いだ。 「そんな体勢(かっこう)で寝ていたら胃もたれを起こすよ。おいで、ほら」  先生はベッドから下ろした膝をたん、と叩いた。麦也は這うように傍に近寄った。膝に頭を預け横になる。冷たく肉の薄い指が耳朶を揉んだり、耳殻を軽く引っ張ったり、髪を一房一房掻き分けたりして遊びはじめる。 「ねぇ、昔本で……読んだのだけれど、村を襲う大きな怪物がいて……その怪物が討たれたとき、食われた以上の多くの人間がその怪物を食らうのが、自然に対する礼儀なのだそうだよ。自然は自然に還る……けれど人は死んでも、自然には還らない。墓の穴に入るだけ。コンクリートに隔絶された………それならおれは、どうすればいいんだろう?」 「僕は何人を食らった怪物のご遺体に何人分の価値があって、何人を生かす糧になるかより、先生1人が大事です。先生1人が大切です。このことをきちんと断言してしまうのは罪深い自分を肯定し、向き合うようで心苦しく、祈っていたものに対する裏切りかも知れません。ですが、僕は今までの祈りを無駄にしても、否定しても、拒むことになっても先生が大事です」 「ポチ。おれはお前にそんなことはさせられないよ」 「僕が今まで何の頓着もなく祈れたのは、誰も大好きではなかったからなのかも知れません。誰かを大好きになったら、きっと漠然とした人たちのことは大好きになれないんです。僕は他の知らない人たちのことを大好きになれない巨悪の徒に堕ちても構いません。先生は僕の中にしっかり輪郭がありますから、先生を大好きでいられるのなら、他の人たちに輪郭など持てないんです」  先生は小さく「ダメだよ」と言った。それじゃいけないよ、と続いた。 「生きることは食べるということで、おれは生きたいから食べる。でもそれは誰かの営みを害している。ポチ、おれはそれでも生きたいんだ。普通の人より罪が重い。生きているだけで人は人が作り出した罪を犯して、それでも線引きをして無邪気に生きているのに、おれはずっと罪が重い。目を背けていられないほど、明確に。あんな曖昧なものじゃない。それでも生きたい。ポチ、おれは…」 「生きてください。僕が言えるのはその一言だけです。生きてください。だって僕はもう、他の人のことが大好きではないんですから」  麦也は起き上がった。水膜を張った黒い双眸と見つめ合う。神経質な感じのする眉が大きく歪んだ。肉の薄い頬を幼さのある両手で挟み、額を当てる。 「お風呂入ろっか」 「はい」  閉ざされた目蓋の奥、長い睫毛の下から図書室の絵本でみた人魚の鱗が剥がれ落ちるのを麦也はその目で確かに見た。  先生は機嫌を取り戻し、過剰なくらいに麦也に構った。晒した肌を甘噛みしたり、吸ったりし、湯たんぽのように抱き竦めたかと思うと、頭や首、腋の匂いを嗅ぎたがった。身体を洗うのも、髪を洗うのも、歯を磨くのもやりたがり、麦也はすべて身に任せた。白い手が前に抱えた大切な肉人形の肩や胸元が冷めないよう、入浴剤に染まったグリーンの湯を掬い、掻き寄せた。柔らかなタオルが髪を拭き、耳を拭く。先生と同じ香りを身に纏い、境界を無くす。さらに先生はまだ半乾きの麦也を腕に納めるものだから尚更のことだった。 「ねぇ、ポチ。お前に返さなきゃならないものがあるんだ」  先生は親猫のように、顔を寄せる麦也の唇をキスのついでに舐めた。それから子猫はシーツに転がった。同じ匂いのする人はベッドサイドから折り畳まれた白いハンカチを出した。薄紅の花のプリントがしてあり、高齢の女が持っていそうな雰囲気があった。見覚えがある。いつの間にか紛失したものとよく似ていた。 「それ、僕も似たようなものを昔持っていました。随分前に失くしちゃったんですけど」 「そうだろうね。だってこれはお前のものなんだから」  先生はアイロンの掛けられたハンカチを麦也の手に握らせる。 「え…?」 「覚えていないか。おれはよく覚ているけれど、優しいお前にとっては日常のほんの一部に過ぎなかったのかも知れないね。このまま持っていようとも思ったけれども、置いておくのも仕方ないし使うのも悪い気がして。だからいつか帰そうと思っていたのに、こうなふうになれるとは思わなかったな。あの時は、おれを見つけてくれてありがとう」  麦也は握らされたハンカチには一瞥もくれず、先生を眺めていた。彼の雰囲気が少し変わり、目が離せなかった。濡れていっそう艶を増す髪や湯に浸かった肌、バスローブが作る変化ではなく、ひどく曖昧で不安と形容するならば行き過ぎてしまう、妙な気持ち悪さがある。 「寝ようか。髪を乾かしてあげる。おいで、おれの可愛い子」  ハンカチを抱き締め、麦也は促されるまま先生に背を向けて座った。ドライヤーが轟音をたて、熱風を吹く。先生の鋭さのある硬い指が頭皮と髪を掻いた。大好きな人と同じ匂いが薫る。ある程度乾くと冷風で仕上げられ、麦也は先生の胸の中に飛び付いて眠った。このまま一瞬で、何の苦しみも悲しみもなく、悔いを顧みる隙もなく地球が爆発四散してしまえばいいのにとさえ思うほど、それが些細な出来事に感じられるほどに幸せだった。深い眠りは骨や肉をせせらぐ川のように溶かしていくようだった。   ごつ…と鈍い物音で白猫ムグラと花畑を走り回る夢は終わりを告げた。傍にいた先生の姿がなく、麦也は眦を擦りながら起き上がった。 「先生…?」  窓が開いていた。レースカーテンが夜風に靡き、漏れた光が床に倒れている黒い髪を炙り出した。首からは縄が伸び、軽い物を干すための棒を引っ掛ける小さなフックの片方が麦也の足元に落ちている。天井を見上げた。板剥がれ、漆黒が覗いていた。数秒は父の死様を思い出し、それから現状が爆ぜた。長い肢体は俯せに投げ出され夜風に遊ばれる髪以外は動かなかった。麦也は目の前が真っ白になっていた。床に崩れ落ち、戦慄く手は暗い視界に浮かぶような白い肌に触れようとした。だが弾かれたように彼は手を引いた。気付くと裸足のまま玄関を飛び出した。遠くで車のドアを力任せに閉めるような音がする。麦也は蹲った。それからまた震える手で玄関扉のノブを捻る。 「宝井!どうした」  夜更けにも関わらず陰気な中では活気のある楠葉の声がした。 「先生が……っ、先生がっ、」  まだ何が起こったのかもまったく分からなかった。黒髪がさらさらと踊っていたことだけは脳裏にはっきりと焼き付き、言葉にし己にも聞かせてしまうことを身体が拒む。楠葉は皆まで聞かず、玄関扉の奥に駆け込んでいった。膝は力が入らず動かなかった。悪夢は醒めない。悪夢が醒めないのならこのまま消えてしまってもよかった。立ち上がるには膝も腰も利かず、麦也は頭を抱えた。玄関前のライトが明かりを感知し、光を消した。何時間経ったのかも分からなかった。朝日が登ったこと、目の前を蟻が通ったこと、小鳥が鳴いていること、受け取ったままを感じ、それ以外には何もなかった。玄関扉が鈴を鳴らして開いた。楠葉がわずかにできた空間に身を割り入れるようにして出てきた。 「今はまだ寝ているが、とりあえずのところは一命を取り留めた」  目の前で屈む楠葉に麦也は縋り付く。 「大変だったな。きちんとは寝ていないだろう?横になったほうがいい」  喉の辺りに留まった栓が抜けたみたいに麦也は大声を上げて泣き始めた。楠葉は嬰児をあやすように麦也を宥めた。 「驚いたよな。よく頑張った。中に入ろう。身体を冷やすのは良くない」  スマートな体格からは想像もできない、そして抵抗する気も起きない不思議な包容力で麦也は中へと連れ込まれる。レイモンドの部屋のベッドに座らされ、楠葉は床に膝を着き、呆然自失の麦也を案じた。 「大好きとか、祈りとか、許すとかそんなんじゃ、先生は何も、何も救われはしなかったんです……僕は何も先生のことを分かりはしなかったんです。先生はお優しいから、僕に安らいだふりをしていてくれただけなんです…」 「宝井…こういうのは、裏か表かという話じゃない。だからあの人は間違いなくアンタに救われていたし、これからもアンタが傍で救うんだ。でもどうしても、波というものがある。これはもう誰がどうこうできる問題じゃない」  楠葉の手は麦也の腕や肩を確かめるように摩った。麦也はぶるぶると首を振った。 「先生を救えるのはきっと僕じゃないんです。僕は空っぽのことしか言えなかった。僕は先生の何にもなれないんです。楠葉さん…僕は、…」 「宝井…今のアンタにこれを言うのは酷だが、人にはどうしても他人では手の届かないところがある。どれだけ愛して、どれだけ傍に居ても。それが一個人の限界なんだ。アンタに落ち度があったわけじゃない」  麦也は咽び、肩を揺らした。涙で前が見えなかった。 「俺はあの人の傍に居なきゃならない。アンタ、しっかりしていられるな?気をしっかり持て。あの人が目を覚ました時、また日常に戻れるように」  目を擦りながら頷いた。楠葉は一度軽く麦也を抱擁してから先生の部屋に戻っていった。  先生は半日眠り、真っ青な顔をして目を覚ました。深く落胆したような表情で額に手の甲を当てた。楠葉はベッドの脇で頭を抱えるようにして寝ていた。静かに部屋へ足を踏み入れたばかりの麦也は枕に埋まる横顔を見つめた。白い天井の映る円い黒曜石がふと転がる。 「ポチ…」 「先生…」  首には保冷剤の入ったタオルが巻かれ、輪郭が隠れると幼く見えた。窓から入る光が先生の肌を溶かす。掠れた声が生々しかった。 「ごめんね…」  治まった涙がまた噴水の如く溢れ出た。泣く顔を押さえ、立っていられなくなった。膝をフローリングにぶつける。 「ごめん…」 「いいんです…僕のほうこそ、ごめんなさい。また……先生にとっての苦界に引き摺り堕ろして……」  咽喉が内側から破裂しそうだった。しゃくり上げ、言葉は歪む。 「ううん、ありがとう」  先生は穏やかに微笑んだ。麦也は嗚咽を繰り返した。 「カエリも……すまなかったね。本当に」 「いいえ」  脇で寝ている楠葉の頭を白い手が撫でた。楠葉は目覚めていたらしく、徐ろに立ち上がった。そして何も言わず、麦也の肩を柔らかく叩くとその横を擦り抜け部屋から出て行った。 「おいで、ポチ」  大好きな優しい声は嗄れていた。空いたベッドの脇を、今にも透けそうな青白い手が叩いた。麦也は泣きながら傍に寄る。シーツを叩いていた手が伸び、髪を引っ張るように何度も撫でた。 「ごめんね。本当に…」 「僕は、生きていることが一番の幸せだと思っていました。僕は、先生の苦しみを何ひとつ……」 「自分で首括っても、何も解決しないよね。ごめんね…それでもおれは、決着したかった。この(カラダ)と………もっと早くこうするべきだったのかも知れないけれど………ポチ、おれを許さないで。許さないことのほうが、つらいけど」  麦也は血色の悪い手に何度も接吻した。何度も何度も接吻した。 「おれはね、ポチと生きるには罪が重過ぎるんだ。人の道から外れていても、人の中で生きてきたものだから。罪を罪だなんて思えない人間だったなら良かったのに、でももしそうだったなら、きっとおれはお前のことも………」 「いいですよ、僕は。それでも。先生とひとつになれるなら」  薄い唇は苦々しく弧を描く。 「山奥の怪物が村人を襲ったら、人々は掟に従って怪物を撃つだろう。その怪物を人が食って、明日の営みに続くんだろう。でもね、人狼(ひとおおかみ)はそうはいかない。人の姿(つら)をしているから、誰も人狼を疑わない。よしんば人狼を撃っても、誰の血肉にもならない。ただ被害が治まるだけ」  そして掠れ、嗄れた声で穏やかに喋り続ける。 「でもそんな人狼に、神様が現れてしまった……」 「先生は人狼(ひとおおかみ)でも怪物でもありません。僕にとっての神様です。先生がいなかったら僕は、きっと死んだように生きてました。空が青いこと、花がよく咲いていること、野良猫が徘徊していること、適当に眺めて適当に感じて…」  冷たいが湿った手は麦也の頬に添えられた。濡れた肌は普段のようにさらさらと滑らなかった。 「ポチが思うよりもずっと欲深くおれはお前に依存しているんだよ。でもどうしてだろう?おれはお前には…お前にだけは………」  彼は溜息を吐いて最後まで言わなかった。しかしそこには困惑しながらも微笑が残る。 「おれがいなくても生きていけるね?」 「……生きていけません。僕は先生の匂いと、先生の声と、先生の肌と、先生の言葉がなければ、生きられません…」  麦也の様子は落ち着いていた。まるで棒読みのようでさえあった。 「生きられるよ。息を吸って、吐いて、それだけで腹が減って、何か食べたくなる。おれもお前も結局その循環(サイクル)の中から逃れられない。残念だけれど。ねぇ、ポチ。もしお腹が減ったら、きちんと食べるんだよ。おれはポチを内側から蝕んで、死なせたくない。ポチ、おれは悩んで悩み通して逃げられなくなって死のうとしたんじゃない。思想と現実がぶつかって、理性を持って首を吊ったんだ。ねぇ、ポチ…」 「嘘です!先生みたいな頭の良い人が、あんな脆いところに人の体重がかかればどうなるかくらい、判断がつくはずです!先生、どうして僕も誘ってはくれなかったんです…どうして…」  先生は照れたように笑った後、それこそ嘘のように表情を引き締めた。 「お前はおれと違って、少なくとも生きてみても問題はないから。この国の信仰で10歳、もしかしたら20歳くらいまで生きれば、自分で死ぬことがいけないこと、悪いこと、故意的に人に迷惑かけてしまうことだなんて、数学の公式ひとつ覚えるより簡単に刷り込まれるんだよ。それでもこの手段を選ぶんだ。ポチ……見送ってくれる?」  麦也は首を振った。 「僕も一緒です」 「おれたちはやっぱり動物で、本能(カラダ)は生きたがっていて、それでも理性が、生きることに向いてなかった、或いは社会の在り方に馴染めなかったって、本能には反することを考えちゃうんだよ。おかしいね。人間は人間になるには早過ぎたのかな。おれたちは、動物の部分を凌駕する進化の途中経過、試験段階に過ぎないのかも知れないね」 「先生のおつらさを、僕は少しも感じ取ることができませんでした。先生、ごめんなさい」 「別にはつらくはないよ、お前に会えたから。それに早く決断しないで、罪を重ねたのは確かだから…」  先生は優しい声で話しながら、その手は麦也の細さと幼さのある両手を縛っていた。 「生きるものは等しく醜くて、死んでもただ、生きる者には醜い。その中で必死に綺麗なものを探して、辿り着いたらお前だよ、ポチ。おれはもうお前に何日かかるか、いやでも計算できているんだ」 「先生の中に入りたいです。先生の一部になりたいです。僕が白痴で片輪な醜男なのは、先生の一部になるためです!」  首にはベルトが嵌まり、視界はゴム製の目隠しで閉ざされる。麦也はされるがままだった。まだ先生を眺め、触れ、しがみついていたかったというのに、何の抵抗も反発もせず、過敏になっていく嗅覚で余すことなく先生の清らかな匂いを肺に溜め込んだ。 「お前は世間一般から言えば美少年だよ。モテただろう?もう少し垢抜けて背も高ければ繁華街のスカウトもいくつか受けていたかも知れないね。けれどおれから言えば、お前の中身は醜かった。盲信的で、まるで即身仏(ミイラ)になるために胃の中のものをすべて吐き出した僧侶みたいに、一個人ってものがなかった。その他多勢を平均化したみたいだった…まるで個を捨てた教科書みたいで。でも人には捨てきれない自我があるから、そんな風に生きていたらいつか破綻する。ねぇ、ポチ。生きていけるね?」  麦也はまた首を振った。 「冥福は祈らないでね。自分で死んだのに、まだあの世でこの自我(いしき)が続くなんて嫌だから。分かっているんだよ、おれの帰属意識(ニンゲン)の部分で、こんなの、良くないことだって。でも同時にその部分が、早くこの決断を迫っているんだ」 「せん、…」  唇が柔らかく制される。先生の匂いがぶわりと薫った。 「…なんてね。本気にした?ポチをひとりになんてしないよ。おれの可愛い子」  縛られたままの腕を引かれ、麦也は首輪と目隠しの付いたまま先生と横になった。 「レイくんのネックレス、付けてあげるね」  首輪の下から冷たく重みのある輪が付いた。拘束された手でリングを抱いた。 「先生が好きです。先生が好き…先生が大好きです。先生が大好き……」  麦也は丸まってまた泣き始めた。先生の硬い腕が痩せぎすの腹や腿を揉んだ。 「ポチは強い子。ポチはとっても優しくて、強い子だから大丈夫。おれのことを好いてくれて、おれもポチのこと大好きだから、いつかダメになったとき、おれとの思い出がポチのこと、守ってくれるから。大好きされた日のことだけ思い出して。誰に大好きされたかなんて、忘れてしまってもいいから」  麦也は先生に背を向けて蛹になった。小さな笑みが聞こえ、先生は起き上がる。一度ベッドが沈む感じがした。 「先生…?」 「カエリとエッチするから、傍に居てくれる?先生、エッチして、生きてるって感じれば、すぐ元気になるから…」 「はい」  髪を柔らかく撫でられ、先生は楠葉を呼びに行った。扉が開いた時からもう始まっていたらしく、リップ音が微かに響いた。ベッドがまた大きく沈み、急激な荷重でスプリングが軋んだ。麦也の身体もバウンドする。縛られた両手に乾いた冷たい手が乗り、誤って接触したものと思われたが細く長く硬い指は麦也の手を握り包む。その間も頻りに鼓膜に入るキスの音は緩やかな律動を作り、先生のか細い息が漏れ出ていた。  楠葉は先生の服を捲り、晒された肌を唇で辿りながら、胸や、腹、薄い下生えを軽く吸う。 「ん……っ、あ」  麦也の両手を掴む手が力んだ。その乾いた手の下から自身の手を片方引き抜き、両手で先生の肌を感じる。リップ音は水気を帯び、やがて完全に潤ったものになる。こぷ、こぷぷ…と空気が混ざった。  楠葉は先生の半分頭を擡げた性器を唇で愛撫し、舌を這わせた。何度か頭ごと動かし、口内で扱く。 「あぁ…っ、」  麦也の両手の中で先生の指が広がったかと思えばまた軽く力む。麦也は両手で挟んで、その上から頬を寄せた。 「ごめ、イッちゃ…あっああ…っ!」  嗄れた声が掠れきり、麦也はベッドから振動を感じた。 「カエリ…、ごめんよ。ティッシュが……ぁ、ん…」 「このまま慣らします」  視界が塞がり、汗ばんできた先生の手を裏表で感じ取っていると、感覚を絞られた耳は楠葉の落ち着いた美声に欲情を探り出した。 「カエリ……っ、」  楠葉はベッドの下からローションを取り出し、掌に垂らすと絵に顔料を塗るようにしながら収斂する土留(どどめ)色を(ほぐ)しにかかる。中指で、几帳面に切り揃えられ磨かれた爪が立たないように、手を寝かせ、一皺ひと皺を丹念になぞる。  先生は麦也の両手の中でぴくん、ぴくん、と指を跳ねさせた。羽化直後の蝶を思わせ、麦也はひどく優しい心地になって蓋をしていた手を除ける。そしてまだ片の掌でぎこちなく翅を開くものに接吻する。すると唇の触れた肌理(きめ)細かい手が一度ぶるりと波を打った。 「ぁっああっ…!お願い、もう、挿れて……!」  シーツが擦れ、蒸れた先生の匂いがした。生唾を呑む音も微かに聞こえる。ベッドがまた沈み、麦也は純白の小海を揺蕩った。。ベッドのスプリングが2人半の重みに悲鳴を上げる。

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