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第13話
ベッドが激しく揺れ、先生の片手を食む麦也の両手もつられた。ぎしぎしとスプリングが軋み、先生は高く鳴いた。暴れ回り逃げようとする腰や足の中で、楠葉は呻くような息を吐いた。
「だめ……っ、またイく、イくから……っ!」
ゴム製の本格的な目隠しは鼻梁にも吸着し、光をまったくいれなかった。完全に閉ざされた麦也の視界には一面の銀河めいた黒しかなかったが、その奥で先生が必死な声を上げていた。だが楠葉は官能を刺激する抑圧的な息遣いで荒々しく、それでいて慎重に抽送と愛撫を続けた。
麦也は憐みと励ましの念を込め、合わさった肌をさらに深く合わせる。
「先生…」
母親を呼ぶように麦也は汗の混じった先生の匂いと甘い声に酔い、心地の良い言葉を口にしていた。
「だめ、だめ…、トんじゃう……っ、トぶから、ぁっあっゃあっあっあっぁあ!」
泣き叫び、狂乱しているのかと思うほど先生はベッドの上を跳ねた。とすん、とすんと麦也にも直下型の軋みが伝わった。
「……っ!」
拍手に似た音が部屋に響いた。速さを増し、楠葉の熱っぽい吐息がそこに紛れた。
「あぁっ、ゴム……ナカでい、から…ッ、んぁ、もぉ………!っあんっ」
乾いた音は短かな時間、さらに急激に間隔を狭めた。先生が断末魔とも咆哮ともいえない嬌声を発し、息切れが2つ後を引いた。
「ポチぃ……」
間延びした調子で先生は麦也を呼び、麦也は指のひとつひとつの関節に接吻した。
「意地悪、しないで……っぁっ」
唇に触れた滑らかな皮膚に覆われた丸い骨がぎこちなく動いた。
「せんせぇ」
先生の中に居るのは楠葉であり、先生を乱したのも彼に違いなかったが、それでも麦也は先生と深く繋がったような気がした。両手に食む冷たかった他者の手はすでに体温の境界を失っていた。
楠葉は弛緩した白い体躯を、括れながらも筋肉によって引き締まった腰で強く穿った。瀕死の兵に止 めを刺す様にも似ていた。
「ああっ!だめ、も……壊れる、お尻、壊れ……っあんんっ…!」
麦也は先生の手を辿り、手首や腕にも口付けた。柔らかな内側の肉に頬を擦り寄せると一夜の悲しみが薄れた。この先には幸福しかないような錯覚さえあった。
「だめ、だめ、ポチ、や、ぁっ!頭、おかしくなる…!」
片方だけだった温もりがもうひとつ麦也の手に乗った。毒としか言いようのない甘美な匂いを求める。それは衣料用洗剤やシャンプー、ボディーソープのようなはっきりしたものではなかった。そういった様々な要素を帯びながらも、上手いこと調和され、そこに先生独自の匂いもある、希少な香りだった。空気に奪われてしまう前に麦也は貪り嗅いだ。ぎし、ぎし…とベッドは漣のような風情があった。視界の閉じた麦也には何が起きたのか分からなかったが、繋いだ四つの手に重みを増した。ぎし、と一段階スプリングが音をたて、先生は絶叫に近い嬌声を響かせた。
「…く……っ、!」
間近で楠葉の追い詰められた声が聞こえた。
「お臍の裏……どくどくいってる……」
楠葉の息遣いが重く鼓膜に響いた。
「申し訳ない…中に…」
「んぁ…、待って、まだ動かない、で……大丈夫だから…」
それから少しして、ベッドが沈んだ。シーツが擦れた後、両手の重みが消える。勘によって、行為は終わりを告げたのだと覚 り麦也も手指の抱接を解いた。やがて目隠しが外された。色気の灯った気怠げな楠葉の顔がまず目に入った。そしてベッドに横たわる先生が濡れた黒い瞳でこちらを見ていた。
「先生」
「可愛い子…」
白い胸板にぷくりと淡紅梅 が二輪咲いていた。ぐったりした腕が持ち上がり、麦也の髪や頬を癖のように撫でた。
「掻き出します」
楠葉が言った。寝起きを思わせる低さとしわがれた感じのある声音をしていた。先生はわずかに乱れた黒髪を振る。
「もうちょっとだけ、君の種を感じていたい」
「具合を悪くします」
「もう少しだけ。こんな激しいの、なかなかないから…ね?ポチ」
先生の手に引かれ、キスされる。乳飲み児になって夢中で吸った。
「キス気持ちいい………カエリも、する?」
媚びた調子で擦れながら先生は首を傾げた。楠葉は反発する磁石のようなすばやさで顔を背けた。
「しない?…そう」
「いいえ。します」
彼は狙いを定めた猫よろしく、飛び掛かったみたいな速さで先生の唇を奪う。黒い目が見開いた。花に留まるアゲハ蝶が麦也の脳裏にイメージされる。ほんの一秒にも満たないキスで楠葉の雰囲気はがらりと変わった。危うげな、それでいて目の離せない艶麗な空気を纏っている。
「掻き出します」
「うん、お願い…」
そこからはもう事務的で、先生は俯せに寝転がると腰を高く上げた。そして枕に伏せた黒曜石が、時折艶美に濡れながら麦也を見つめた。麦也は彼の手に触れようとしたが待ち構えていたハナカマキリを彷彿させる動きで捕われてしまう。まるで幸福なバッタになった心地だった。
「終わったら夕食を作る。待っていてくれ」
熱く激しい、スポーツに似た性行為で楠葉の冷淡さのある声や陰気な喋り方は喉からして調子がおかしくなり、普段よりも上擦っていた。麦也は聞き惚れ、ろくに話を聞いていなかったが、大体の響きはよく聞くものだったため、呆けたまま頷いた。
麦也はキッチンルームではなく、先生の部屋で食事を摂った。両手は縛られ、首輪も嵌まり、固く視界も閉ざされていた。先生によって口に運ばれたのはガーリックの効いた柔らかい牛肉だった。アルコール臭く渋い、それでいてかろうじて葡萄の風味を感じる液体と交互に飲まされる。ガチガチと先生の歯が鳴った。咀嚼と嚥下の時間は与えられたが気を遣う間もなく、口には牛肉かおそらく赤ワインを含まされる。話すことは許されなかった。先生はガチ…ガチ…と歯を叩き鳴らし、喉からは乾風が抜けるような不穏な喘鳴を漏らしている。何切れ口にしたのかも分からなかった。口内で溶けるように柔らかく、繊維にまで味が染み込み、軽く噛んだだけで割れていく。肉の旨みと味付けは非の打ち所が無いほど調和していた。テレビ番組で観たことのある高級牛肉の可能性が高かった。贅沢を禁じたどころか必要最低限まで生活の質を落としていた麦也にとっては市販の牛肉でさえまずあまり口にしなかったため、もしかすれば牛肉の中では比較的安価なものであったのかも知れない。肉付きが食い終わると、ワインを流し込まれ、麦也はそれをすべて飲んだ。
「先生…?」
ガチ、ガチと歯を鳴らす返事があるだけだった。ガチガチ、ガチ、ガチ…かちち…と顎や歯茎を痛めそうな音が何度か続く。響きが少し変わり、扉が開いたらしかった。他には楠葉しかいなかった。
「楠葉さん」
「宝井。ごめんな」
「何が…ですか。ご飯、美味しかったです」
「そうか。良かった」
彼は扉の辺りから動いていないようだった。
「お肉も、お酒も……お酒が出てきたのはちょっと意外でしたが……」
「今日は一品しか出せなくて、すまなかったな」
「とんでもないです。毎日、手が込み過ぎていたくらいですから」
楠葉が黙ると、ガチガチ、ガチガチという歯を鳴らす音が目立った。先生は温順 しかった。何も言いはしない。麦也を呼びもしなかった。
「俺は、この家に来て……様々なものをみた。人間の中の人間たる部分と動物でしかない部分の臨界点を感じることもある。俺は人間が上位の存在だと思い込んでいた。毎日、パックされた肉を見て思う……なぁ宝井。人間が一番偉いのか」
「…分かりません。ですが僕は、人のためにしか祈れません」
「この人は何故苦しむ?」
麦也は冷静を装った。楠葉の様子はおかしく、それを刺激したくなかった。
「宝井………正直に言ってくれ。人間は肉や植物を採って食らう。だが命を奪ってはいけない。この線引きはなんだ?この矛盾にはっきりした、答えはあるのか」
「おそらく答えはありません。控えめに言っても、種の保存のためとしか僕には言えません。それでも人は人を殺すから、この説も…」
ガチ、ガチ…と歯が鳴った。真横のベッドが軋む。歯の打ち鳴らされる音が動いた。やがて、じゅるじゅる水気の多い音がたった。
みちち……じゅるる、くちゃ、くちゃ……ぐぐっ…
鼾 にしては甲高い空気の漏れが水音に紛れている。啜り、嚥下。噛み千切る。咀嚼、嚥下。噛み砕く。咀嚼、嚥下。引き千切り、咀嚼、嚥下。息はひとつしかなかった。しかしそれが乱れ、嘔吐 いた。麦也は両手の甘い縛 を解く。両手が自由になれば目隠しを外すのも簡単だった。先生は喉元を押さえてもがき、苦しんでいた。
「先生…」
黒い瞳は麦也を捉えた。見たこともない形相でベッドを見下ろし、突然、大粒の涙を溢しはじめた。
「コロ、シテ」
尋常ではないほど苦しみながら、喉を潰されたような掠れ具合で先生は言った。麦也は両手を緩く結んでいた縄をぴんっ、と張ると先生の手の下の首に巻いた。左右に力一杯、縄を引く。眼振が見て取れた。そして目蓋が伏せられる。しかし玄関扉が勢いよく開き、麦也は縄を手放してしまった。先生の身体はすでに先客の横たわるベッドに崩れ落ちた。複数の足音がこの部屋に近付き、ドアが蹴破られた。麦也は先生に袖を摘まれるのを感じながら、現れた制服姿をぼんやりと見ていた。
◇
雨村 青雲 は殺人、死体遺棄の罪で逮捕された。潜入捜査に当たっていた楠葉 蛙鯉 は服毒自殺を図っていた。麦也は長い取り調べの後に解放された。数日は部屋に籠もりきりだった。シルバーリングを握り、まるで指と掌が癒着したように放さなかった。十塚は献身的に麦也を支えた。本人の話からするとこの十塚が楠葉と連絡を取っていたらしかった。そして麦也の運命を変えた夜、大勢の警察官を連れてやってきた。
何もかもが信じられないまま月日が経った。裁判が何度も行われ、テレビや新聞ではセンセーショナルに報道され、雑誌やインターネットでは様々な憶測が尾鰭背鰭胸鰭を付けて泳ぎ出さんばかりに飛び交った。どこから嗅ぎ付けたのか居場所を特定され、玄関前でフラッシュを焚かれたこともあった。そのたびに十塚に守られる。彼は妻子を放ったらかしにしているようだったが麦也はそのことについてもう何も言わなかった。妻がいようが子がいようが、求められるまま身を任せ、十塚と縺れ合う夜もなくはなかった。ある日彼は麦也の実父の自殺について何かの拍子に話し始めた。行方不明の時に家の中を漁ったと自白まで付けた。「俺はお前の父親が、お前を愛していなかったとは思えない」と十塚は言った。麦也の机の上にあった色鉛筆の1本1本に書かれた名前と、箪笥の中の綺麗に畳まれた幼年期の服からそう判断したものらしかった。麦也は当時、親類から遺書の概要を聞いていた。何の根拠にもならず、麦也は一笑に付した。
さらに月日が経ち、雨村の死刑が確定した。その2週間後、死刑囚は病没した。例年より寒い冬だった。麦也は十塚との約束を破り繁華街に出た。巨大なツリーが飾られ、雪だるまのオブジェが並び、イルミネーションに輝く街は浮ついていた。同棲相手の作ったオムライスで腹は満たされ、暫くあてもなく歩いていた。行き交う人々がよく見えるベンチに座り、火傷しそうなほど熱い缶のミルクティーを握る。胸元ではいつ買ったのかも覚えていないシルバーリングが曇っていた。店々から流れてくるふざけた季節の曲を聴き、甘い液体に舌を焼かれ細雪 の中彼は少し泣いた。
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