「なにす、ん……」 抗議の声が最後の韻(いん)まで紡がれるよりも先に、琉依(りゅうゆい)の目が大きく見開かれた。ひくっ、と息を飲むような喘鳴(ぜんめい)をひとつ立てると、全身が緊張し、強ばる。 「依(ゆい)？」 白く雲が立ち湧き、透けるように流れてゆく空。煙か砂埃か、濁るように淀む空は星を追い落とし、低くかかる月は滴るように赤い。 風に揺れるように射し込む柔らかい木漏れ日。すべてを溶かすように湿った闇に溶け込む細い路地の暗がり。 誰よりも慣れ親しんだその人の、取り戻すように肩を揺する手。知らない手は、襟元にかかっているのに、身体が動かせない。 琉依、と耳に馴染んだいつもの声が何度も、何度も自分を呼んでいるのがはっきり聞こえるのに応えられない意識。揶揄するように笑う知らない声が、何もかも壊しそうなほど頭の中で激しく響く。 疑いようもない今と、過去か未来か、いつのものか分からない刻が交互に流れ込んでくる。 目の前の人、風景、声に安堵するのに、それらを絡め取るように知らない画が塗りつぶしてゆく。塗りつぶされた画に恐れを抱けば、暗転するように現実に切り替わる。 息が、苦しい。流れる血が、冷たい。頭が、割れてしまいそう。一体なんで、こんな。 「あ……っ……」 「依！ 琉依！」 何度も何度も呼び続ける声が、忘れてしまっていた呼吸と彼をようやく引き上げた。向かい合うように、見据える目と怯える目がようやく交わった。 「な、に……今の……」 喉が張りついたように乾いて、引き絞るようになんとか発された声はひどく掠れていた。 唇は青ざめ、色をなくした蒼白な顔。 暑くもないのに汗がとまらない。 ひどく震える身体。 浅く、せわしい呼吸。 傍目(はため)に見て取れる様子だけでも、尋常ではない。 あんなにも、強く繰り返される呼びかけに一切応えることはなく、両眼は焦点が定まらず振れ続け、揺さぶる身体はひどく緊張していた。あの時、琉依の意識がどこかに捕らわれていたようにすら思えた。 その時に比べれば、ほんの少しばかり呼吸は整ってきているように見える。それでも落ち着きを取り戻した、とするには程遠い状態にあった。 乙慎が、小さくなった震える背に手をそえる。 「依、急にどうしたんです。何があったのか」 「そ、の……なんか凄く、嫌な場面、が」 庇うように琉依は、自身の二の腕をきつく握りしめている。指先は、固く白く色が抜けるほどに強くしがみつく。 明滅するように断片的で、知らない場面がちらつく 。 ひどい目眩がして、きつく目を瞑る。 気持ち悪い。吐きそう。 沿うように置かれた手が、なだめるように背をさすり続ける。 「嫌な、場面？」 「それ、がっ……怖くて……う……震えが……っ」 思い出そうとすることにも耐えられず、顔を伏せる。震えを押さえつけるように、握りしめる衣に指先がくい込み、袖に深く皺が刻まれる。 踏み入った聞き方をするでもなく、ただ横で案ずる乙慎(いつしん)にすら琉依は言えずにいる。見えたものをどんなものか説明しようとすれば、今度は深く踏み入らざるを得ない。あれを、今一度見ることになったらーー。 「っ…う……」 絞り出すように呻く琉依が、いっそう小さくうずくまる。 「……まだ」 覚えていたのか――と。 声には乗せず、唇が動くだけだった。 「琉依」 それから何も言わず、主の背を撫で続ける乙慎だったが主の名を呼んだ。 「な、に？」 緩慢(かんまん)な動きで、琉依は少しだけ顔を上げた。充血して赤くなった涙がちの目だった。 「あなたに伝えるべきか、伝えない方がいいのか…ずっと迷っていた事があるんです。あなたの記憶に関すること、なんですけど」 そこで言葉を切ったのは、一息に述べることの難しさを示す証左に他ならない。 いつだって、喧(やかま)しいほど饒舌(じょうぜつ)に話してくれる従者の言の先を、主は待つ。 待たせる従者は、続ける言葉に先んじて深く、息をついた。 「知らない方が良いのかもしれません。でも、あなたのことである以上は、琉依がどうしてもと言うのならもう、止める権利は……私にはない」 「そんな、に……？」 打ち明けられた琉依は静かに、驚いたように瞠目する。いつも軽妙なほどに言葉を紡ぐ唇を、真一文字に引き結んだまま頷いた。 幼い頃に出会い、それから長く過ごし、主従になったといえども琉依がほとんど見たことの無い、それほどまでに険しい顔だった。 「……慎はどう、思う？」 問えば返すより先に、その険しい表情に更に影がさす。 「私、は」 またも続かず、言い淀む。 なんて、重いのだろう。本当にこの口はどうかしてるのか。普段の調子はどこにやってしまったのか。 「正直なところあなたを見て、今、この話を持ち出したことすら悔いています」 さぁっ、と追い立てるように走る風が、二人の間をわたった。双方身動(じろ)ぎもせず、お互いに口を閉ざしたまま。風が草木を遊ばせるだけの静謐(せいひつ)な刻。時間が、止まったような。 「教えて。何があったのか」 震えて、乾いて。ひどく掠れて。 その上で、確かに求める声が静寂(しじま)に通る。諾(だく)、と主が言うのだ。それでも。 「一度」 たった一言ですら、今の乙慎は常日頃の饒舌さとは程遠いものになっていた。 情けないほど、腹立たしいほどに滑りの悪い口になってしまっている。歯痒いとさえ感じられるほど、噛み締めるように、乙慎は口を開いた。 最後だ。まだ、戻れる。逃げたって、避けたって構わない。けど、選ぶのはあなた、だから。私は。 「一度しか……聴きませんよ。猊下。本当に、よろしいのですか」 「甘受(かんじゅ)する」 はっきりと、明確に。揺れぬ意志を琉依は示した。終生仕えると決めたあの夜と、何も変わらないその声が、世話役に命を下した。 「確(しか)と承りました――我が主」 乙慎は瞑目(めいもく)した。 避けられないであろう結果になると知りながら、主の選び取った道の険しさを想って。