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第6話 謹上

大きく、太く節くれだち、老成(ろうせい)なまでにそびえる大樹。 その根元に背を預け、座す主を前に従者は(ひざまず)き、跪拝(きはい)――なにひとつ無駄の無い、厳粛なまでの所作をもって礼をとる。礼が済み、顔を上げれば見届けた主、琉依(りゅうゆい)と視線が交差した。 「(ゆい)」 充血した赤い目に見つめられると、まだ引き返したくなる思いがくすぶり、鼻の奥が()みるような気さえする。そうしているうちに、本当にほんの少しだけ。それも一瞬だった。 名を呼ばれた琉依は、笑ったのだ。 そして、頷いた。 そんな琉依を見ながら、自分はこんなにも未練がましい性分だったかと、失笑しそうになるのを乙慎(いつしん)は歯噛みのうちに抑える。 礼を終えた従者が迎えるように、腕を伸べた。 「こちらへ」 (いざな)われるように、その腕に従う琉依。二人分の衣擦れの音をたてて、迎える腕が受けとめた。 「力を抜いて、そう」 左手を琉依の背に。右手は、髪を撫ぜながらゆっくりと肩へ預けさせていく。緊張していた身体が、ひとつずつ、一節ごとにほぐれていくように、緩んでいく。 「ゆっくり、そうです。少しずつ、呼吸をして」 耳慣れた心地よい声が、長く、のびやかに、細く、引き伸ばすように琉依の呼吸を深くしてゆく。 「五つ、数えるうちに目を閉じて。ゆっくりですよ。だんだんと伏せて……ひとつ、ふたつ、みっつ――」 四、五、と残り二つを数えるなかで、ゆるやかに琉依の(まぶた)が落ちた。 深く穏やかな呼吸の音。腕の中でそれだけが、本当によく聞き取れた。 乙慎の掌が、慈しむように琉依の髪を撫ぜる。 さらさらと指を通す深い藍色の髪。少し癖があるそれは、陽射しや明るさ次第で様々な色を含んでいることを見せてくれた。 ある時には、陸地より遠く離れ、白波が立つ深い青海(せいかい)に近く。 夜明け前、最も大気が冷えこむ低い東の縹色(はなだいろ)を映したようだとも。 わずかばかりの紅を落としたような(しゃ)を落日の空にかけたような紅碧(べにみどり)は、日没から少し(のち)の色だと知った。 白銀の雪原を眺め、寒気に冴える星を抱く厳冬(げんとう)の天球が、張り詰めるような瑠璃色だったのはいつの事だったか。 その時々の色彩を溶かしこみ、滲むように複雑な色をいくつも秘める。同じように忙しいほど変わる表情も乙慎は、いつも傍で見てきた。 その手が、止まり。 深く、息を吸う。 発せられる声が、大気を揺さぶる。 もう、知らなかったころに戻ることはできない。 「きんじょう。そう、りょう、けい、はん、てんのしんしん、げちをせん」 意識は揺蕩(たゆた)い、委ねるように預けられた琉依の身体がびくりと跳ねた。撫でることを止めた手に続く腕が、その身体を抑えつけるように力をこめた。 二人を除いては誰一人としてこの庭にはいない。それにもかかわらず滔々(とうとう)(うた)うようにすべり出る声は、異様なものだった。 乙慎の声は、数人とも群衆ともつかないような響きを持ち、溶け込み、奇妙に、薄気味悪いほどに入り混じっていた。それが一人だけの声に戻る時もあれば、また誰かの声のような音が、追いかけるように重なり合う。 声、音、唸り、ざわめき、風鳴り、咆哮(ほうこう)、あらゆる音の大元としての振動が奔流(ほんりゅう)のように混ざり合い、膨らみ、ひとつに和合(わごう)する。 きんじょう。そう、りょう、けい、はん、てんのしんしん、せんじてげちをせん。 そうえんそうしょう、しびのえんにざす。 りょうせいりょうめい、たいかいにちんす。 けいきょうけいあん、ちゅうてんにあり。 はんおうはんじょ、きゅうせんにいまし。 じょうてんげてんのしん、しかいのしん、しほうのしん、しくんしいっさいのしん、じつげつとわず、さきのよのちのよ、めぐりめぐるいくせいそうにせんしむ。 とうだいはんせいをにえとしはいりょうされたしえんをかえさんともとむ。 またあたうることあるとうたがうなかれえーいえいそう、はん。 締めくくる(いん)を合図のように、生き物のように渦を巻いて膨れ上がった音律は、一気に収束するように(こご)る。 そして、弾けるようにあっけなく消えた。

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