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7 非常階段で井戸端
指、当たり前だけど、あんなに動かないものなんだなぁ。
夜に一応指の体操してみたけど、ブランクって怖いなぁ。そりゃたしかに毎日練習しなさいって言われるよ。あの演奏は市井は上手いって褒めてくれたの、嬉しかったけど、ピアノ経験者としては、ちょっと下手すぎた。
「何、柘玖志、手をうねうねさてんの? っていうか、黄昏てんの?」
「陸」
黄昏てたわけじゃないんだけど。手は……うねうねさせてたけど、手じゃなくて指の体操。
今日は木曜だから音楽教室は借りられず、練習もなし。次は月曜。ちなみに陸上部は火曜、金曜が練習。だから、それまでの貴重な何もない日にさ、指をもっとちゃんと動くように体操しときたいなぁって、思ったりなんかして。だってほら、さすがにもうちょっと弾けたほうがかっこいいでしょ。
せっかく褒めてもらえたし。
「うわぁ……AとBはこのあっつい中でラストの授業が外体育かぁしんど」
「え?」
体育は二クラスが合同になって、男子と女子に分かれる。A組、市井のいるクラスだ。
「でも汗かいても帰るだけだからむしろいいのか。ああいう時って制服に着替えんのかな。ジャージで帰りたくね? 部活ある奴とかはそのまま練習着着たいよな」
たしかに。うちのクラス六限目が体育になったことがないから、わからないけど。でも、どうなんだろ。帰りがバスとか電車の人はむしろジャージで帰りたくないんじゃない?
二人でそんな話をしている間に、A、B組の人たちがぞろぞろと、少しダルそうに途切れることなく出てきた。
「あれ? 市井って体育できんだ」
「へっ?」
「おっまえ、疎いよねぇ、そういうのぉ」
「は? 何?」
「市井って、A組の男子。すげぇサッカーが上手くて、頭も良くて、顔もいい」
「いやっ!」
知ってるから。市井のそういうプロフなら、いくら疎い俺でも知ってるってば。そこじゃなくて、その前のとこ。体育できるんだぁって、言ったじゃん。なんで? 体育はできるでしょ。サッカー上手いくらいなんだから。運動神経抜群なんだから。
「すごいよなぁ。そーんなさぁ、なんでもできちゃう奴がいるなんてさぁ、けど、その市井がこの前、足を肉離れしたっつってた。ほら、夏の大会が最後じゃん、その直前の怪我で、サッカー部が困ってるって」
肉離れ……って。
「最初は松葉杖ついてたらしいよ。けど、体育できるんならけっこう治ったのかもな」
そんなの……聞いてない。
肉離れで練習参加できてないらしい。大会前なのにって女子がへこんでた。っていうか女子がへこむのもおかしいだろって思うけど。応援したかったんだろうな。でもやっぱ最後の大会だから本人が一番へこむよな。大学とかもサッカーで推薦もらってそうじゃん。ユースかジュニアユースにも通ってたらしいけど、今はどうなんだろ。けど、そういうのどうなんだろうなぁ。セミプロとか、なんか天上人感すごくない? よくわかんないよなぁ。
そう陸が呟いてた。
ユースとか俺もよくわかんないけど。
でもなんかすごい、っていうのはわかる。
そんで肉離れで最後の大会が危ういっていうのはしんどい、っていうのもわかる。
俺も夏の大会あるけど、でも、もちろん市内の大会でマラソンで、勝ち進むとかそういうレベルでもない俺はその日で引退ってもう決ってる。引退のタイミングというかを大会っていうとこで区切っただけのこと。それでいい。そういう感じでマラソンしてたから。最後しっかり走って、三年間が終わったーって感じでさ。
けど、市井は――。
六限目が終わると少ししてホームルームが始まる。諸連絡とかあって、そんで、「さようなら」ってして。放課後になるんだけど。
「おーい、柘玖志、帰り……」
「ごめん! 用事あって、先帰ってて」
「お、おー」
うちのクラスのホームルームが終わって、同時くらいに終わったD、C、B組のドアから外に飛び出す奴らを避けつつ、はるか彼方のA組へと向かった。
俺もホームルーム終わってすぐに飛び出すように教室を出たけどさ、なんで、飛び出すんだよ。ぶつかるじゃん。危ないじゃん。廊下は走っちゃダメなんだってば。
何度かぶつかりそうになるのを寸でで避けて、ついに目的地であるA組へと、辿り着いた。
辿り着いたけど、どう言えばいいんだろう。
何を話せばいいんだろう。
肉離れしてるの? なんて、訊いてどうすんだって感じだし。足平気なの? とかも大きなお世話だし。
でも、すごい痛そうだ。
肉離れってなったことないけど、名前からして怖い。肉が離れるって意味がわからないじゃん。肉、離れちゃうってさ。
「あっつー」
「はぁ、ダル」
そんなことを考えながらA組からも人が出てきた。ホームルーム終わったんだ。早くない? うちのクラスが遅いとか? 体育終わって更衣室で着替えて、それから教室に戻ってきてホームルームなんだよね? その割には早いでしょ。時空飛び越えたとか?
「市井、俺の分のジュースも買ってきてー」
その時、そんな声がその人が飛び出すドアの中から聞こえてきた。
「俺、ジュース買いに行くわけじゃねぇから」
そして、その中の声に答えるように、市井がひょこって出現した。
「自分で買いに行……」
制服だ。
「……ぇ、あ、白石?」
陸、ラストの授業が体育でもちゃんと制服は着ないといけないっぽいよ、って内心、遠くのF組へとテレパシーを飛ばしておいた。
突然現れるから、唐突すぎて、なんて言えばいいのか、迷ったすえに、すごく一番下手な言い方をした。
――肉離れ、大丈夫?
なんてさ、無神経で大きなお世話なこと。
「あー、肉離れ、先々週やっちゃったんだ」
「……そう、なんだ」
でも、市井は怒ることなく、笑って、ホームルーム終わった? じゃあ、ジュース買うから付き合ってって言った。
今さっき、教室の中にいる誰かにジュースを買いに行くわけじゃないって言ってたのに。
クラスの皆には聞かれたくなかったのかもしれない。
怪我のこと。
なのに、俺は思い切り、普通の声で言ってしまった。
自分のバカっぷりに反省しながら、俺よりしっかりした市井の大きな背中を眺めながら後ろをとぼとぼ歩いてた。
辿り着いたのは非常階段のとこ。合唱部が音楽室を使ってるから、俺らは使えなくて、そこに座って話し込んでた。
「びっくりした。練習中だったんだけど、太腿ンとこ、本当にバリバリって音がした」
そんな音しちゃうんだ。そりゃそうだ。肉が離れちゃうんだから。
「けっこうひどい肉離れでさ」
「……うん」
反省です。俺。めっちゃ本当に無神経だったでしょ。
「あの、今は……?」
「まぁ……大丈夫……と思う」
なんか、間があったんですけど。
「たぶんね」
ほ、本当に? 肉離れたのに? そんなのちゃんとくっ付くの? っていうか、肉離れたの大会までに治るの?
「俺、サッカー上手いほう……だと、思ってた」
「う……ん」
知ってる。それは。肉離れのことは知らなかったけど、でもサッカーが上手いのも頭がいいのも知ってる。
「けど、別にプロになれるレベルじゃない。なれるのなら、もうそういう場所にいる」
そうかな。俺にはすごいと思うけど。
「……そんなことないでしょ。すごいじゃん」
「でもそれで食ってはいけないから」
市井がじっと、自分の脚を見て、膝にトンって拳を乗っけた。
「なんか、そう思ったら、急に、俺、他に何ができるんだろうって思ってさ」
「……」
「他にやりたいことってなんだろうって」
今度はその手をパッと開いた。
「新しいことしたいっていうか、自分にできることは他にないのかなって探してたら、ハンドフルート見つけて」
「……」
「そんで、脚痛くて動けないしってちょうどいいから練習してみたんだ」
「…………えぇぇ!」
思わずでっかい声を出しちゃって、ここ、非常階段で、慌てて誰からかわらかないけど隠れるように背中を丸める。いきなりでっかい声を出された市井は目をまん丸にしてこっちを、じっと見てた。
「じゃ、じゃあ、あのハンドフルート、たったの二週間であんなに上手になったの?俺もっと前からやってるんだと思ってた」
「あー、いや、二週間前、から」
「すっご!」
やばい。また声でかく。
「…………っぷ、あははははっ」
今度は市井がでっかい声で笑って、俺が目を丸くした。笑うとこじゃないでしょ。だってすごくない?
「あはは、はぁ、驚くの、そこ?」
だって。
「っぷ、あはははは」
だって、ホント、すごい上手じゃん。
すごいことだよ。そう言えば言うほど市井は笑って、そんでその笑い声が非常階段にめちゃくちゃ響いてた。
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