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10 カラス傘
今日のお天気ってなんだったっけ?
俺、お天気見た? 見てない?
「白石、傘忘れたの?」
見てなかったんだろうね? ほら、市井のあのきょとん顔。今日雨降るって言ってたのに? みたいな顔。
雨が降り出して急遽練習は終わりにした。本降りになると帰るの大変だから、なんだそうです。でも、俺は本降りになるとか以前、降ることそのものを知らなくて、なんだったら、止むまでここで待ってたいなぁなんて思ったくらい。
「傘、パクられた?」
「う、ううんっ」
ぶんぶんと首を横に振れば、また、きょとんって顔をされた。なんで、雨降るって言ってたのに傘持ってないの? って感じ。
「けど! 大丈夫!」
そして開け放たれたままの昇降口の古びた扉の向こうには、飛び出すには少々勇気のいる本降り雨が音を立てていた。グラウンドはびしょ濡れ、空はどんより分厚い雲がびっしり隙間なく並んでいるせいで、通り雨の予感はゼロ。
「た、ぶん、置き傘がぁ」
置き傘なんて素敵なものはないけど。でも、これじゃ市井が帰りづらいでしょ。傘入れてもらうにしては雨けっこう降ってるしさ。かといって、隣をずぶ濡れで歩かれたらねぇ、やでしょ。
「いいよ、一緒に入れば」
「え、けど」
「ほら」
早く帰ろうっていうみたいに先に外へ出ると、市井が傘を広げて、昇降口の屋根の下で待っていた。
「ほら……」
「ご、ごめん」
大きな真っ黒な傘が市井の頭上ぎりぎりのとこでカラスみたいに羽を広げてる。なんだか、市井が心なしか背中を丸めて窮屈そうだ。俺より背が高いから、俺に合わせると変なことになるんだ。
「あ、あの、もっとそっち傾けなよ。肩濡れる」
「……あぁ、平気」
「いや、けど」
濡れちゃうじゃん。
女子相手ならわかるけど、俺、男だし、別にそんなの気にしなくていいのに。けど、これは女子が喜ぶやつです。知ってるのかはわかんないけど、少女漫画大好きな俺の分析によれは、このシチュでさりげなく傾けられた傘に女子はテンション上がります。めちゃくちゃ萌えます。
「俺は頑丈だから」
あ、そういうのも絶対に高ポイントだと思います。すっごく。
「市井がモテる理由わかる気がする」
「は?」
「うん。すっごいわかる。顔だけじゃない」
「何言ってんだ」
「市井の彼女になれたら、めちゃくちゃ幸せになれるわぁ」
「……」
もうさ、リアル少女漫画でしょ。この傘もそうだし、高いとこの物、取ってくれるんでしょ? それから、あとは。
「白石、」
「あ、何、もしかして、今の間ってさ、沈黙って、誰かいる? 彼女っていうか、好きな子っとか」
「……」
「って……」
いるっぽいー、なんてちょっと突付いてみたかったんだけど。
あれ?
「……」
なんか、今、ちょっと、俺、今さ、何か、あんま、なんだろう。
俺。
「あ、そうだ、市井は? 自転車?」
変なの。俺。
自分で恋愛トーク系し始めたはずなのに、なんで、話を切り替えたんだろう。
俺は雨が降るって知らなかったから、もちろん、自転車だ。思いっきり普通に乗ってきた。うちから学校までは自転車なら二十五分。でも、バスだとそんなに本数が出ないせいで、朝は早く家を出ないといけないし、帰りは遅くなるし。何より、朝がぎゅうぎゅうの箱詰め状態だから、バスに乗っただけで疲れる。それならマラソンで持久力だけはある俺は自転車のほうが断然いい。
「いや……」
ですよね。雨降るって言ってたもんね。
「今日はそうだよね。けど、普段は? チャリでしょ?」
「あー……いや、バスと徒歩」
「そうなんだ。ほら、この前、あの公園にいたじゃん? それならチャリのほうが早くない? バスの時間待って、バスに乗って、降りてそこから歩くのより」
たぶんそう遠くないとこに住んでるんだろう。もしかしたら、最寄駅とかも同じでさ、どっかですれ違ったりしてたかもしれない。俺は周囲をあんまりキョロキョロしないし、市井にしてみたら、俺は影が薄いだろうから見逃すだろうし。
「……寝るから」
「なるほどぉ。サッカー部の練習すごいもんな」
「……」
野球部もきつそうだけど、サッカーもかなりしんどそうな練習で、運動部の中ではのほほん組に分類される陸上部としては、ちょっとビビってしまうくらい。だから眠くなるのも頷けた。ヘトヘトでしょ。特に帰りはさ。
「そうだ、今度あの歌やりたい」
「え? 何々?」
「あとでメッセージにくっつけておいてもいいか?」
「うん、もちろん」
どんなだろう。ミミコピできるかな。
「っていうかさ、市井はハンドフルートができそうにない曲とかってあるわけ?」
「まぁ」
「すごいなぁ、市井はなんでもできちゃって」
あるんだ。本当に? だってなんでもできちゃうじゃん。
「ピアノ……」
「え?」
「どんくらいやってた?」
「あぁ、習ってた期間?」
始めたのは四歳からだった。年中さんってやつ。幼稚園のサクラ組ン時。それで小学六年までやってたから。
「えーっと、八年?」
「八年」
「うん。けど、歴としては短いんじゃない?」
「そうなのか?」
「うん」
長い子とか、本気の子は今だって続けてる。音大に行きたい子ならその四歳の頃からずっとずーっとやってるわけだから、八年とか一桁の数字くらいじゃ全然足りない。リタイヤ組だ。
「あんなに上手いのに」
「いやいや」
下手くそだよ。今日は指体操のおかげでつっかえずに済んだけれど、ただそれだけの話。
「ぼっちじゃないっていうのも楽しかったけど」
「……」
「白石の弾いてるとこ、いい感じだった」
俺はさ、平々凡々なんだ。
市井はもう本当に何拍子でもなんでもかんでも揃っててすごいんだ。
「八年も続けたっていうのもえらいよ」
「……」
だから、俺からしてみたら、そんな市井に褒められることってものすごいことで、奇跡みたいなことだから。
心臓が小躍りした。胸のとこがなんだか騒がしくなって、真っ黒なカラス傘に当たる雨音くらいに騒がしい。
「そんなことは……」
「普通にさ」
でもこんなに騒がしいのに、ぽつりぽつりと呟く市井の声だけらよく聞こえる。
「見惚れてた」
ほら、カラス傘の広がった羽の内側が市井の声でいっぱいになった。
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