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13 ダークな俺

『明日の練習、するよね?』  を、ずっと訊けないままでいる。あの後、放課後の部活で走ってる間も、帰りのチャリの間も、ご飯食べてる間も、もやぁってしたものが胸のとこを覆ってて、けどそのなんかよくわからない白っぽいような灰色のようなもやぁが色々を濁らすから気になって、変な感じがずっとしてて。  そのせいでさ、大好きな『オオカミ君』を読んでてもテンション上がらないし、集中できないし、もちろん萌えない。どれを読んでも、萌えない。どーんなに大好きなシーンでさ、「はい、それでは、泣いてる主人公をイケメン君が見つけ出し抱き締めるあのシーンは何巻の何ページでしょう」っていうクイズが出ても余裕でわかっちゃうくらいに何度も読み返したあの名シーンですら、テンションは低いままだった。  低いまま、地面ギリギリなラインのまま。  そして、「明日」の練習するよね? って訊くはずだったのが、もう、「今日」に変わってた。  今日の練習するよね?  に変わっちゃって、でも文字を直すこともなく、そのまま送信ボタンを押さず、文字を打つところに残ったままでる。  で、朝になって、学校に来ちゃったし。 「なんかね、市井君がそんなこと訊くんだよ?」  その声に、やっと乾いてくれたスニーカーを下駄箱にしまう手がピクンって反応した。 「市井君、ピアノとか急にどうしたんだろー」 「へー」  可愛い声。声が高くて、下駄箱のところで、まるでマイクでもくっつけてるみたいに、その女子の声だけがやたらとよく聞こえてくる。そして、その声がゆっくり移動して、俺のいるE組の下駄箱前を通過した。  長い髪がサラサラな女子だった。  たぶん、昨日の女子。そんでもって、ものすごく可愛い。まさに少女漫画の主人公だ。 「だからね、できるよーって答えたんだけど」  市井がピアノのこと、あの子に訊いたんだ。 「そしたら、市井君、なんか嬉しそうだったぁ」  できるよーって答えたら、嬉しそうにしてた……ってさ。  あ、なんだ、これ……これ、何、これ。 「めっちゃ笑ってて眼福」  あ、そうですか。それはそれはよかったですね。なんて、今、俺思っちゃったじゃん。すごく卑屈でダークな俺が出て来ちゃったじゃん。なんですか、このダークな俺。すごく、すごく嫌な感じ。あんまこういう気分は好きじゃないし、なりたくないのに。 「よっ! はよ、柘玖志」 「……はよ」  止められないし、ダークな俺が消えてくれない。 「うわぁ、何そのテンション底辺な感じ」 「そんな日もあるんだよ……」 「ふーん、なんか、あった?」 「……なんも」 「……」  ダークだから、俺。 「あれ? 今日、あの練習の日じゃなかったっけ?」  今、その質問とか、ダークな俺にしちゃいけないやつだから。 「……」 「あ、こら、おい、無視すんな」  無理。完全無視する。ダークだから。 「……あるよ、たぶん……ないかもだけど」 「え? あるの? ないの? え? どっち?」  でも一応答えておいた。ダークなままのテンションでぼそぼそと低めの声で、聞き取れるかどうかギリギリくらいの感じで、チクチクな声で答えたら、やっぱり聞き取れなかった陸が聞き返してきたけれど、そこはもう無視して教室へと向かった。  きっとあのサラサラ髪の女子と楽しくピアノの話しをしてるだろう誰かさんのいるA組を競歩の選手みたいにものすごい速さで、サンダルが高速足音をさせるくらいに素早く通り過ぎた。  音楽室が開いてなかったら帰ろう。  ほら、あの女子も急なのはちょっと困ってるかもしれないじゃん? だから、昨日の今日でっていうのは無理なのかも。けど、もうその女子と次の月曜からは練習するんだろうし、それなら俺いらないじゃん?  ほら、卑屈。ものすごい卑屈。  へそだって、もう完全背中にいっちゃってるくらい。口だってへの字に曲がっちゃう。 「……」  けれども、五階に上がるとピアノの音がした。  ポロン、ポロンってたどたどしく、まるで泥酔猫が千鳥足で、「猫踏んじゃった」を演奏してるみたいに、よろけた音。  市井はいるんだ。  演奏が下手くそだから。  あのサラサラ女子はいないんだ。  演奏がとっても下手くそだから。  あの女子はきっとめちゃくちゃ上手いんでしょ。ショパンとか見事に弾いちゃうんでしょ。 「! 白石」  やっぱりいなかった。 「遅かったな。ホームルーム終わるの」  あのサラサラ女子はいなかった。そんで泥酔猫が演奏した「猫ふんじゃった」はやっぱり市井だった。 「なぁ、白石、今度、この曲とかさ、楽譜があれば」  そんで、ダークな俺はまだここにいる。思いっきり。 「あー、俺、あんまピアノ上手くなくてさ」 「白石? ピアノ、上手いじゃん」 「いやいやぁ、もっと上手な子のほうが良くない?」 「?」 「ビジュアル的にもさ」  卑屈でへそ曲がりの底辺テンションの俺がすっごいしゃべってる。 「市井って、すごい人気じゃん」 「……白石?」  引っ込んでくれないんだ。今日一日、ずっとダークな俺なままなんだ。 「俺と一緒にピアノでセッションしたい人―! ってさ、市井がもしも言ったらさ」  だって、できる? って、訊いたんだろ?  だからあの子は、できるよーって答えたんじゃん?  そんで、あの子ができるって答えてくれたから嬉しいんでしょ? 「きっと、ハイハイハーイって女子がいっぱい手を挙げるよ」  はい、それで万事丸く、まんまるく、収まりました。 「白石? 何を急に」  急に、ピアノを別の人に頼んだのそっちじゃん。  そりゃ、指体操から始めないといけないくらいのブランクありの下手くそだけどさ。 「いやぁ、ほら、受験生だし、そろそろうちもさ、夏の大会前でラストだから、練習頑張らないといけないしさ、そこに加えてピアノもーっていうのは、無謀かなって」 「……」 「あ、いや、市井みたいに器用だったらさ、それでもいけるんだろうけど。俺、ぶきっちょだからさ」 「……」 「けど! 楽しかったから。練習してみるよ。時間ある時にでも」  あんまさ、「練習しておきます、いつかまた一緒にできるように」なんていうと市井は責任感じちゃいそうじゃん? だからここは「ザ、社交辞令」って感じがちょうどいいと思うんだ。 「ごめんねっ! 市井」 「……」 「けど! 俺、応援してるからっ」  色々頑張ってねって、言ったんだ。  全部言ったからかな。今、ここにいたは、ダークな俺じゃなかった。いつもの俺で、言い終わったらさ、寂しくて、悲しくて、市井の顔が見れなかった。見て、「よかった先に言ってくれた。もうピアノ新しい子に頼めたから」って、ホッとされたら、ぺしょーんってしょんぼりしちゃいそうで俯いたまま音楽室を出た。  今日は来ないのかもしれないけど、次の練習の時にはきっといるんだろう、サラサラ女子のために音楽室を後にした。

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