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26 キス

 啓太のその手には「オオカミ君」の一巻があって、俺の目の前にはぬりかべみたいな少女漫画ぎっしりの本棚がある。  俺の部屋に啓太がいて、その隣に俺がいる。  啓太の顔が今までで一っ番近くに来て、イケメンは近くに来ると余計にイケメンが増すんだと知った。真っ黒な瞳が真っ直ぐこっちを見てて、見られてるって思うとほっぺたんとこがものすごく熱くて、くすぐったくて、緊張とドキドキで爆発しちゃいそうなのに、目が離せなくて。  これって、もしかして、キス。  そう思った瞬間、啓太の真っ黒な瞳が俺の唇に視線を移して、目を伏せたから、俺も視線を啓太の唇に向けて、そのまま目を閉じた。 「……」  人生初めてのキスは、ほんのりバニラとピーチの香りがした。  そっと触れて、そーっと離れた。  柔らかかった。  ――やっぱ無理って、思ってんのかと思った。  さっき、シェイクを飲んだ。  飲んだり食べたり、友達と話したりするあの唇と、キスをした。  ――俺と、付き合うとかが。  キス、したんだ。 「……柘玖志」  付き合ってるって、今、このタイミングでさっき言われたこと思い出しちゃったじゃん。 「は、い」  付き合ってるんだ。好き同士。だから一緒にいたいなぁって思うし、話してるとふわふわするし、近くにいるとドキドキするし、キスもする。  キスも、それから――。 「柘玖志は、キス初めて?」 「あ、当たり前じゃんっ」 「そっ……か」 「け、啓太は? キス」 「……」  付き合ってるから、キスもする。それから。 「初めてだよ」 「そ、なの?」 「あぁ、そりゃ、だって」 「……」 「ずっと、気になってた奴がいたから」  そやつは、多分、俺、なのかな。多分、だけどさ。自惚れとかじゃないけど……さ。 「今のが、柘玖志のファーストキスって聞いて、めちゃくちゃ嬉しい」 「っ」 「飛び上がりそうなくらい」  そりゃ、そうですよ。そりゃ、俺みたいな平々凡々は。今のがファーストキスに決まってるじゃん。今のが。 「柘玖志」  今のが初めてのキスで。そんで、その次の、二回目のキスも。 「は……ぃ」 「……」  啓太とする。付き合ってるからキスもする。 「柘玖……」 「ただぁぁ、いまぁぁぁ」 「「!」」  二人して飛び上がった。 「あれ……柘玖志ー、お母さんはぁ、ねー、お母さん」  紬だ。 「ご、ごめっ、妹」  慌てて、なんでかバタバタしながら、部屋から扉越しに返事をした。お母さんはいないって、多分、買い物じゃん? わかんないけどって。  パートさんをしているから、夕方くらいまでいないことが多いんだけど、今日は確かに少し遅いかもしれない。 「ねー、柘玖志ー、お母さんにさぁ」  トントンと階段を上ってくる紬の呑気な声。 「今! 友達来てる、からっ!」  部屋のドアを開けると、もうそこに紬がいて、いきなり開いた扉に少しだけ目を丸くした。 「知ってるよ。知らない靴あったもん」 「なっ」  なら、絡むなよ。 「まぁいいや。自転車貸してー。私、駅前行ってくるから」 「どうぞ」  もう、はよ行け。  俺のそんな念なんてものともしない呑気な鼻歌を歌いつつ、紬は自分の部屋へ行き、鼻歌を歌ったまま、外へ出た。今度は外で、ガチャンって俺の自転車のスタンドを上げる音がした。 「ごめんっ、今の妹で」 「あぁ、試験準備期間とか?」 「違うみたい。あの感じだから」 「そっか……」  多分、来週からはあんな呑気な鼻歌歌えないんじゃないかな。中学だから、試験期間がまた違うっぽい。 「えっと、その……」  今、けっこうしっとりした雰囲気だったんだ。キス、二回目をしようとしてて、けど、きっとその二回目のキスはもっと、なんというか。 「あ、の……」  けど、もうそのしっとりした雰囲気はさっきの紬がかました呑気は鼻歌のノリのせいで、台無しで。けど、今はまだ二人っきりだから、そのしっとり雰囲気に戻るかもって思ってみたりしたんだけど。 「啓っ」  この三秒後くらいに、紬と全く同じノリで帰ってきた母さんが知らないスニーカーを玄関先で発見して、あらあらお友達、って、陸じゃないんかい、じゃあ、お茶出して、お菓子出して、あとは、あとは、っていう忙しい感じに圧されて、しっとり雰囲気に戻れる要素は皆無になった。 「お邪魔しました」  啓太が丁寧にお辞儀をして玄関を出ると、夕日で空がピンク混じりのオレンジ半分、青半分の綺麗な色をしていた。 「なんか、騒がしくてごめん」 「楽しかった」 「そ、そう? うちのお母さん、ミーハーで」  陸くらいしかうちに来たことがないから、突然出現した、イケメン男子に大騒ぎだった。一瞬、ぽかんとしてたっけ。あらあら靴が大きいから背も高いのね、なんて意味わかんないこと言ってはポテチだジュースだ、お茶だ、チョコだ、って何度も部屋に来るし。ついには、唐揚げ食べるか? とか言い出して、もううるさくて。  きっと、啓太が帰ったあとは大騒ぎだよ、イケメンが我が家に来た! って、そう溜め息混じりに謝ると啓太がまた笑った。 「……そんじゃ」 「あ、うん」 「また」  また……はい。  また、うちで。はい。 「試験、頑張れよ」 「うん」 「それじゃあ」 「うん」 「また」  同じ会話を繰り返して、ゆっくり啓太が歩き出す。  また、その言葉に二人してほんの少しドキドキしながら。また、こんなふうに、二人で。 「試験終わったら、その、半日、だろ?」 「あ、うんっ!」  試験が全部終わるとその翌日は解答用紙が返却されるだけの、俺らにとってはお祭りデーが待っている。その日は部活もないし、一夜漬けのお勉強ももうしなくていいから開放感がめちゃくちゃすごくてさ。しかも、そのあとすぐに夏休みだから。 「誰とも約束とかしてないなら」 「うん」  ゆっくり後ろ歩きで帰りながら啓太が会話を続けてる。啓太の方がよっぽど忙しそうだ。俺は誰とも約束なんてない。 「会いたい」  今、その約束をした。 「ぅ、うんっ!」  会う約束をしたら、啓太が笑って手を振って、後ろ歩きをくるりと翻し、夕陽に向かって歩き出した。 「試験、終わったら……」  また、会いたいって、言われてしまった。また、そしたら、うち、かな。もうその時には図書館であの個室を借りる必要もない。もう――。 「試験は……えっ! あっ! 試験っ!」  もう試験じゃん! 「やばっ!」  今日は勉強してないし、教えてもらおうと思ってた問題がいくつかあったんだけど。 「やっばっ!」  そして俺は慌てて自分の部屋へと帰っていった。

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