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61 これは、優しい愛の話だ。

「すごい! ここ、この前のレッスンの時よりすっごい上手になってるじゃん!」 「えへへ」  どうしてもつっかえてしまうところがあったのに、彼は得意気に笑って家でたくさん練習したんだって話してくれた。そっか、家でも練習ができるようにって電子ピアノを誕生日プレゼントにもらったって言ってたっけ。毎日練習して上手になるんだぁって、嬉しそうに俺に教えてくれた。 「じゃあ、次のレッスンはぁ……ここ、やるからね」 「はーい! 了解です! 白石先生」 「ここめっちゃ難しいから頑張って」  男の子は、「大丈夫! うちにピアノあるから自分でもうやってみちゃうもんね」って、また得意気に笑って、教室を飛び出した。防音になってるから会話は聞こえないけれど、外にはお母さんが待っていて、男の子と楽しそうに何かを話して、そしてこっちに顔を向けた。  あ、そうだ。今日のレッスンで何をやったのかって、伝えないといけないんだった。それで、宿題は出さないけど、でも、家でやりたいって言ってたから、コツちゃんと伝えておこう。 「あ、すみません! 今日のレッスンは……」  教室の外に出ると、男の子は廊下の壁に指をついて、教えてあげた指体操をしていた。 「お疲れ様です。……えー? 俺、いつもテキパキしてますって……それじゃあ、お先に失礼します」  スタッフ控え室の出入り口でもう一度頭を下げて、まだ少し戸惑ってしまう自分のIDをタイム管理の画面に打ち込んだ。  階段を駆け下りて、外へと飛び出す。 「さぶ……雪、もう降っちゃいそ」  外に出るとほっぺたに当たる冷たい風に自然と身体が縮こまった。 「はぁ」  息も真っ白だ。そのふわりと自分から溢れて、真っ暗けになった空へと広がる白を見上げた時だった。ふと何処かから女の子たちの会話が聞こえた。 「あー、この人、めっちゃかっこよくない?」 「マジかっこいいよね! この前、一点決めたんだってぇ」  そんな女子高校生のはしゃいだ声に駅前にある大型スクリーンへと視線を向ける。でっかいでっかい、ビル一面の巨大スクリーンには、ちょうどゴールを決めて、迫力ある表情をしたサッカー選手が写ってる。 「かっこいぃ」 「すごいよねぇ」  ピッチの上に膝をついてスライディングして、手を合わせて祈るように……。 「点決めるとあれやるんだってぇ」 「何あれ、すごくない?」  あれはハンドフルートって言うんです。すごいよね。怪我をしている間にあんなことができちゃう器用な人なんです。  そして、彼はハンドフルートで一小節奏でると、薬指の巻かれたテーピングにキスをして、空へ両手を広げた。 「マジで……かっこいいわぁ、って、婚約者がいるんだよねぇ」 「えぇ、そうなんだ」  そうらしいですよ。なんか、そういう発表したらしいです。相手のことは非公開らしいんですけどね。 「あれ、婚約者にアピってるのかな」 「ぎゃー、めっちゃいい! アピられたい」  そう? 結構される側は気恥ずかしいものがあるらしいですよ?  それにしてもすごいよねぇ。サッカーで点決めると本当にああ言うことするんだなぁってびっくりしたよねぇ。大画面スクリーンではシンデレラボーイと言われた日本代表がピッチを駆け回る姿を映しながら、アナウンサーさんが次の試合の日程を教えてくれていた。  しばらく試合は休み。次は……って、放送日時を伝えてる。 「はい。もしもし……うん……おかえり」  そのシンデレラボーイの名前は市井啓太と言います。 「今ね、レッスン終わったとこ……うん」  ジュニアユースで活躍後、ユース入団はならず、高校の部活でサッカーを続け、三年の夏の大会でアンダー二十一の監督の目に留まり、電撃招集。当時、ユース等に助属せず候補に選ばれたのは市井選手一人だけ。  その後、練習試合で大活躍し、日本代表候補へ。そこからは――。 『次の試合は日本開催の予定です。市井選手の活躍に期待しましょう!』  そこからの活躍はあの巨大スクリーンに映っている。 「…… うん。寒いね……今日は雪降るって言ってたよ……え?」  ファンタジーみたいな恋をした。  平々凡々な男子高校生が魔法だって使えちゃいそうなスーパー高校生と、恋をした。  そのスーパー高校生はサッカーをやめてしまうところだった。もう嫌いになってしまいそうだった。  けれどやめなかった。  平々凡々な高校生が「君はサッカーが好きなんだ!」ってとても偉そうに決めつけてしまったからだ。  平々凡々な高校生は何もやりたいことが見つからなかった。どうしようかと、何がわからないのか分からないほどにぼんやりとしてしまう自分の「進路」という名前のついた未来に戸惑っていた。  けれど決めたのだ。  ピアノの先生になろうと。ピアノは楽しいんだって、この鍵盤を弾く指先は魔法が使えるんだぞって小さな子どもたちに伝えていきたいと思ったのだ。そして、勇気を出して一歩前に踏み出した。合唱コンクールのピアノ演奏に立候補した。けれどもそこからが大変だった。なにせ、平々凡々なのだ。弾けるようになるまで毎日毎日練習をした。絶対に弾いてみせると胸に闘志を燃やして。  どこにでもありそうな恋の話だ。  誰でも味わったことのある恋の話。けれど、やっぱりファンタジーのように、キラキラと、ふわふわと、優しく輝く、恋の話。 「ただいま、柘玖志」 「……」 「これ、買っておいた」 「っぷ」 「なんで笑うんだよ」 「だって」  だってさ、めちゃくちゃイケメンがさ、めちゃくちゃかっこよく微笑んで、何を出すのかと思うじゃん。指輪とか? 花束とか? そういうのだと思うじゃん。 「だって、今から買いに行くんだろ?」  でも、そのイケメンが手に持っていたのはただの少女漫画。 「オオカミ君最終巻」  ただの恋のお話。好きな子と、恋をしただけの話。ドキドキして、泣いて笑って、怒って喧嘩して、廊下で激突して、そんで色々あったけれど、最後、笑顔のハピエンが待っている恋の話。 「ありがと」 「読み終わったら俺にも貸して」 「あ、あれどうだった? この前、遠征に持っていったやつ」 「めちゃくちゃ面白かった」 「よかったぁ」 「次さ、ドイツの遠征に行った時に借りた漫画の作者のやつ読みたい」 「ラジャー」  ファンタジーみたいにキラキラした恋をした。 「あ、そうだ、啓太」 「?」 「おかえり」  さぁ、皆がまだ大スクリーンに映るシンデレラボーイに目を奪われてるうちに家へ帰ろう。そして、キスをして笑って、ぎゅううううううって愛を交わそう。 「ただいま、柘玖志」 「それにしても寒いねぇ」 「そうか?」 「雪でも雨でもサッカーしてる人にはわからないんだよー」 「けど」 「けど! ……雷の時は中止になる、だろ?」 「あぁ」 「今日は鍋にしようよ」 「あぁ」 「あ、そうだ、今日、レッスンの来た子がさ」 「あぁ」  これは……これからもずっと続く、どこにもである、そして、どこまでも続く可愛い恋で、優しい愛のお話だ。

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