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クマ
それからしばらくして。スイはさっきの足跡のことを疑問に思い始めた。子グマの足跡...?と、いうことは、つまり。母グマがいるはずではないのか、と。もしそうなら、これは大変な事態になってしまった。
...襲われてしまう。悠悟は人間だ。クマに襲われれば死んでしまう。妖狐のスイは生命力が桁違いなので、多少は傷を負っても平気だが、悠悟は。そこまで一気に頭を回転させ、ようやくゴクリと息をのむ。
(かくれんぼは終わりじゃ!早く逃げなければ)
「悠..........」
一緒に引き返そうと、悠悟に声をかけようとした、その瞬間。
「ひっ...!」
短い悲鳴が聞こえた。ズザッと立ち止まる。ゆっくり視線を前にやると、そこにはタイミングバッチリに現れた存在。黒くけむくじゃらの、何か。
...そこに居るだけで圧倒的な存在感を誇る――クマが、いた。
目を逸らさずに、こちらをじっと見つめている。そして、運の悪いことに。その後ろには、子グマの姿。それはつまり、母グマにとって命に代えてでも守るべき対象。
スイが恐ろしさに、耳と尻尾をピンと張り詰めていると、前から震える声。
「落ち着け、俺...。背中は見せず...ゆっくり、後ずさり...」
ブツブツ唱えながら、顔を引攣らせているのが後ろからでも分かった。が、その言葉と対照的に、棒立ちのまま動いていない足。否、動かないのだ。
無理もない。普段都会で暮らしている彼にとってクマと出くわすなんてことは、非日常なのだから。スイは自分が怯えていることが情けなくなった。仮にでも妖狐。だが、なにか自分に出来ることはと頭をかきむしるも、空っぽの脳からは「危険だ、危険だ」という警報しか鳴り響いてこない。
このまま自分一人で逃げることは簡単だ。脚には自信がある。だけど、いくらつい昨日会ったばかりといえど、このまま悠悟を置いていくことなど考えられない。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)
考えていても、母グマは待ってくれない。ジリジリとこちらに迫ってくる。悠悟は汗が全身から噴き出すのを感じた。
(ああ...マジで遺言書いてきて良かった。母さん、父さん。今まで育ててくれてありがとう)
死を受け入れると、あとは案外楽なもんだ。もう、安らかに天国へ行くことを願うのみ。
そして、とうとう。
母グマは息もかかる距離まで近づいてきて。
ガウア”ッと叫びながら、悠悟に飛びかかってきた。――と、思ったのだが。
ぎゅっと目を瞑った彼に、痛みが走る感覚はいつまで経っても現れなかった。
(......あ、れ...?)
代わりにツンと鼻にきたのは、鉄の匂い。本能で血だと分かり、バッと目を見開く。
視界に飛び込んできたのは、見たくもない光景だった。
悠悟に飛びかかってくるはずだったクマが押し倒しているのは。
小さな狐。
必死で抵抗しているものの、ビクともしないクマ。その力の差は歴然だった。
悠悟は、何故かその狐の正体がすぐに分かって、恐ろしくなった。なんで。
「スイ様、スイ様?ダメだ、逃げて...なんで、なんで...!」
あんな大きなクマから逃げることは無理だと分かっていても、声を上げるのをやめられない。悠悟は、目の前で何度も体をえぐられるスイを見つめるしかなかった。
お互い、ガウッ!!と口から血が出そうなくらい激しく叫んでいる。だが狐が一方的にやられてその様は、まさに弱肉強食。妖とて、その力は普通の狐と何ら変わりない。弱いものは強いものの餌食になってしまう。
「スイ様…スイ様…!!」
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