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雪虫 37
α用抑制剤を打たれた箇所が腫れて鈍い痛みを告げるのに、自分で噛んだ腕の傷は全然痛まない。
前腕に幾つもついたそれを手当てする直江を見上げるが、表情は読めなかった。
「 よく耐えましたね と、褒めて欲しいのかな」
「 っちが 」
雪虫の上げた声に直江が駆けつけて、オレを雪虫から引き離してくれた。お陰で、オレは本能のままに雪虫に噛み付いて傷つけることがなくて、助かった。
チラリ と直江の視線がソファーで泣きながら寝てしまった雪虫の方へと流れる。
「ラットは初めてだったかな?」
「 あんなのがラットだって言うなら、そう」
Ωの発情に当てられてαが発情状態になるのがラット、だったはず。
「でも、雪虫はヒートじゃなかった」
慣れた手つきで包帯を巻き終え、直江は救急箱をしまった。
「ですね。少なくとも私の鼻では、何も匂いは感じない」
「 ヒートじゃないけど、強く匂ってる……」
「今もですか?」
頷いて見せると、さすがに直江も戸惑った顔を見せた。
腕時計を確認して、オレに打ち込んだ注射器を取り上げる。
「アルファ用で間違いはないですし、まだ抑制剤も効いている時間のはずですが 」
「でも、全然 効いてないんだけど」
「こうやって会話ができてるんですから、多少は効いてます」
そう言うものなのだろうか?
ちょっと気を抜くと、ふらふらと雪虫に寄って行きそうな自分がいる。
「物欲しそうな顔で見ていますね」
「あ、や 」
抑制剤を打った痕がじくじくと痛む。そこを拳で叩いてやると、少しは頭がスッキリするような気がして、拳をそこに叩きつけてはみたが、雪虫に気が行くのは変わらない。
そんなオレを見て、直江は肩を竦めた。
「先生の許可が出るまで、外で発散してきたらどうですか?」
「外 ?」
「すみません、童貞でしたか」
「言わなくていいよ!」
「脱し損ねたんですね」
「なん、なんなんだ!」
そんなに童貞が珍しいか⁉︎
「とりあえず、雪虫が目の前にいると良くないので、部屋に寝かせておきます」
「 っ、わかった」
ソファーで寝かせるのも可哀想だし、雪虫の部屋は外側からの鍵もあるから安心だろう。
「寝かせてくるよ」
雪虫を抱いて行こうとしたオレの前に直江が立ち、首を振って押し留めた。
「近寄らないで」
「っ 」
「またラットを起こしたらどうするんです?」
じゃあ、だからと言って直江に雪虫を触らせろ と?
イラッとしたものを感じて自然と顔が歪んだ。直江がβ性だと言うことはわかるが、それでも雪虫に触られるのは不愉快だ。
「雪虫に触られたくない」
「触りませんよ」
煩しそうに言うと、直江は雪虫に起きるように声を掛けた。
「アルファの扱いは良くわかってます」
ふー と溜め息を吐く姿は、普段の大神のことを思っているからかもしれない。
モゾモゾと起き出した雪虫は、オレの腕を見て泣いて駆け寄ろうとしたけれど、直江に間に立たれて蹈鞴を踏んだ。
「駄目です」
「 ど、どうして?」
直江を相変わらず怖がっているのか、オレの背中に隠れたそうな顔でこちらを見る雪虫は、酷く庇護欲を誘って……
間にいる直江が邪魔だと思ってしまうのは、発情につられたαの攻撃性のせいか?
「 ……ごめん、落ち着いたら傍に行くから」
「いつ落ち着く?」
ほと と雪虫の頬に涙が伝う。
駆け寄って、抱き締めて、慰めて、涙を舐めて、貪って、
噛みた……
「雪虫。行って」
ぐるぐると回り始めた思考を止めたのは、簡潔な直江の言葉だった。
二人ともその声に飛び上がり、現実に引き戻された衝撃で目眩がしそうだ。
「早く」
またも簡潔な言葉に、後ろ髪を引かれるようにしながら雪虫は二階へと上がっていった。
「 あまり、いい状態じゃないですね」
「 オレ、自分がすげぇ怖いんだけど 」
雪虫の体が弱いことも、オレの力で押さえつけたらあっさりと怪我をしてしまうことも、発情に体力がついていかないのもわかるのに!
理解しているのに雪虫を犯して、噛み付いて、孕ませて……
「 自分のって、知らしめたくて仕方ない」
震える手で顔を覆ってソファーに倒れ込む。
「オレ、ちょっとラットを甘く見てた 」
呻く声に、またふー と溜め息が聞こえる。
「一つお利口になりましたね」
聞こえる声は冷たいけれど、頭をグリグリと撫でられて……
理性があるんだから本能に負けるわけがないと高を括っていた自分が、どれだけ馬鹿だったのかを痛感した。
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