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花はいっぱい 40

 くらくらするαのフェロモンが鼻先をくすぐって、馴染んだ喜蝶の匂いに震えが起こった。 「あぁ まだ俺の匂いに反応するんだな」  唇が頬に寄せられて、ちゅっと小さなリップ音がする。  いつものうさ晴らしの悪ふざけだけれど……  普段ならば頬を舐める程度で終わっていたそれが、噛みつくようにオレの唇へと落とされた。忠尚の優しい啄むようなキスとは全く違う、こちらが食われてしまいそうなそれに全身に嫌な汗が流れた。  舌が唇をノックする。  隙間を抉じ開けられて、唾液をまとった舌が我が物顔でオレの口の中を蹂躙した。 「 ふ、ぅ  っ、ぁン  っ」  喜蝶が与えてくる蕩けるような感覚に抗うのは、してはいけないことを行ったかのような罪悪感をオレに植え付けていく。  逃げるために顔を逸らすのも、  いやいやと意思表示するのも、  喜蝶を拒絶していると言うことが堪らなく背徳に思えて、押しのける腕から力が抜けそうになる。  でも、気を付けてね と送り出してくれた優しい声があったから! 「────っ  やめてってば!」  ふざけているのではないとはっきりとした意思表示として、かなりきつく怒鳴ってみた。オレが本気で出した声にさすがに喜蝶も驚いたのか、はっと身を離した。  その隙に潰れたカフェオレの入っていた袋を投げつけ、玄関扉を大きく開く。  誰の目にでも触れてしまえるそこで、喜蝶が何かすることはないだろう。 「オレっ恋人ができた!年上の、優しい人!」 「なに  言ってんだ   」 「だから、こう言う悪戯はもうしないで!」 「   っ   !」  何かを言い返した喜蝶の言葉は声になっていなかった。  見開かれた目にオレが映っていたことだけは確かだけれど、何を言いたかったのかは最後まで分からなくて…… 「オレ、その人と歩いていくと思う!」  呼吸を忘れたように動かない喜蝶が、長い時間オレを見てから問いかけてきた。 「    俺のこと、嫌いになった?」  喜蝶から出るこの言葉はオレには鬼門過ぎる。  幼い時から、オレの家に泊まりにきていた喜蝶。  夜中起きては出入り口になっている窓から、灯りのついていない自分の家を眺めていた。  その横顔は、人形のように無表情で。  悲しそうだった。    喜蝶の両親はお互いを愛していたから夫婦だったけれど、親子であることを遠巻きに拒否して、二人の世界に二人以外の者を入れることはなかった。  本来なら、愛してもらえるはずの相手に放り出された寂しさを、ただじっとそのガラス玉のような瞳に湛えて、ずっと我慢してきているのを、知ってしまっているから。    小さな手でオレに縋りついて眠った喜蝶に、オレまでが否定を告げてしまうのは…… 「 嫌い じゃ、ないよ」 「でも、もう傍にいてくれないんだろ」  足元で中身を零し始めたカフェオレの紙パックを見つめるように、項垂れてしまったせいで表情は見えない。 「今回もいっぱい薫のおじさんおばさんに迷惑かけたから、嫌われちゃったよね。彼女にも振られちゃったし、六華もこうなったら話しかけてくれたりなんかしなくなるよね」 「そん な  考えすぎだって 」 「それで、薫も行っちゃうと、   俺、ホント独りだね」  カフェオレを片付けようと持ち上げようとしたのを断念して、喜蝶は脇を押さえて顔をしかめた。  今度は本当に脇腹の痛みで持ち上げることができないようで、痛みを逃がすためか食いしばった歯の間からそろそろと息を吐いている。  痛みを逃しきって、喜蝶の視線が動いた。 「     今までのこと、薫を困らせたくてしてたんじゃないよ。薫ならさ、困った顔しながらも俺を見て、俺のことを考えてくれただろ?」  ガラス玉のような瞳が水に沈んでいくのを息を詰めて見守る。 「甘える相手、薫しかいなかったから   だから、我がまま言ってごめんね。でもね、大好きなんだよ」 「   っ」  思いを込めながら囁かれる「大好き」は今まで軽く告げられてきたどの「大好き」よりも重くて、呼吸するために動かさなきゃいけないのに、胸がきゅうっと切なくなって息が吸えなくなった。

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