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青い正しい夢を見る 53

 小さな波が足を擽る度に、ざ ざ と波の音がする。  青い海と、青い空と、それから  伊藤くん?  食事をとってないせいか体温が上がらなくて震えていたのに、この海を見ると自然と胸が温かくなる。 「  ────伊藤くん?」  問いかけてみるけれども、いつもすぐ傍らにいる伊藤くんの姿は見えず、代わりに彼の物らしき足跡が点々と海に向かって続いている。  いつもと違う様子に嫌な予感がして、彼の足跡を追いかけるようにして白く泡の立つ波の間へと足を踏み出す。  温かな海水と、足の裏をくすぐりながら逃げて行く砂の感触。  気持ちいいな……  仄かに温かい水に足をくすぐられながら進むと、冷え切っていた足が微かに体温を取り戻したような気がする。 「    伊藤くん?」  小さな波の音は返事ではなかったけれど……───  頬を叩かれ、はっと意識を取り戻した。  先程までは温かな海に足を浸けていたのに、目覚めた先はじっとりと湿気った寒さに満たされていて、生理的な震えに体を縮込める。 「  あ、 あゆ  遥歩さんっ!」  未だ気をはっきりしない僕を気付させるためか、温かな手がまた頬を軽く叩いた。  抱き締めてくれる腕が温かくて、ほっと笑みが漏れる。 「動ける?」  声は強張っていて、暗くて見え辛いが表情も緊張しているようだった。  何事か理解が追いつかなくて、周りを見渡して蔵の中だった事を思い出し、思わず体が跳ねそうになったけれどうまく力が入らずに野村さんの腕の中にくたりと倒れ込む。  開け放たれたままの扉から頼りない月の明かりだけがこちらに向かって伸びて、微かに僕の爪先を照らしている。 「遅くなってごめんね、動ける?」  意識が戻ったばかりで碌々動けない僕の体を何とか引き起こそうと、野村さんがぐいぐいと力を入れるのに従い、奥歯を噛み締めてなんとか体を起こす。  起き上がった僕に安堵したのか、今度は僕の腕の中に一抱え程の鞄を押し込んできた。 「ごめんね、めぼしい物は入れたと思うんだけど  」  言葉を区切っては扉の方をちらりと振り返り、 「  今なら、行けるから」  小さく震える手に掴まって立ち上がり、気が急くのか強引に僕を外へと引っ張り出す。  微かに春の匂いと、  淡く照らされた水底の残骸のような屋敷と、  それから、痣だらけの野村さんと……  ひゅっと喉が鳴った。  今まで辛く当たったとしてもここまで目に見える形で暴力なんて振るわなかった。  僕に対しては何かしら遠慮もなく物を投げつけたり、叩く等の体罰もあったけれど彼女には何もなかったから……安心していたのに。 「  遅くなって、本当にごめんなさい   」  重ねて謝る姿は小さく萎んで草臥れて見える。  きっと、野村さんは遅くなんてない、僕の為にじっと我慢してチャンスを待っててくれたんだ。 「  っ   」  抗議もしてくれたんだろう。 「  遥歩さん?」  だから傷だらけなんだ。 「少しだけどお金も入れてあるから、ごめんね  何も出来なくて ごめんね」  乱れた髪を荒れた指先が撫でつけてくれる。  綺麗な手ではない、荒れた手だけれどもそれは今まで感じたどの体温よりも温かくて、このまま彼女をここに置いて行ったらどんな扱いを受けるのか…… 「  さ、早く行って  」  横たわった死者のように静まり返った屋敷を振り返り、まだ誰にも気づかれていないのを確認してから野村さんは門の方へと僕を押しやる。

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