420 / 665

落ち穂拾い的な ひとひらの行方

 日雇いのバイトでくたびれきった体を引きずって、古いアパートのドアを開けようと鍵を差し込んだ時、ふっと辺りが暗くなった。  停電……  そうじゃないと思いつつ、携帯電話を確認すると電波がないと表示されていた。  カリ ザリ……  ……ザリ……カリ、カリ……  金属を引きずる音に祈るような気持ちで目を閉じ、開けようとしたドアの前から駆け出す。  暗い闇の中を、勘だけを頼りに走って、走って、走って……  ずいぶんと走ったのに、それにつれて周りの明かりが次々と消えていくから、いつまで経っても明るい場所には出ることが出来なくて、延々と同じ箇所を回っている気になる。  ……ザリ  カリ ン……  暗闇と共に訪れる音が傍で響いて、足が震えて地面へと転がった。  コンクリートではなく……土の上だ。 「よぉ  糞虫」  光源なんて一つもない暗闇に、人形のような無機質な瞳がぎらりと光った。  ご と鈍い音がして地面に倒れ込むけれど、それで解放して貰えるわけじゃない。 「いっかーい」  語尾にでも音符が付いてそうな愉しげな声は、けれど低く犬の唸り声のようだ。 「にかーい」  愉快でたまらない声は大きい筈なのに、それを聞いて人が来ることはなかった。  暗い中、空気の動きだけで彼の持つバッドが振り下ろされるタイミングを窺う。衝撃を耐えようとぐっと目を瞑って歯を食いしばるも、音は髪を掠って地面にぶつかる。 「   ────っ なんでっ」 「まぁーいかい、叩いてたら怖くないだろー?」  ふ と空気が動いて彼が近づいたんだとわかる、闇に慣れた目に至近距離にある綺麗な顔がふいに映って、「ひぃ 」と小さな悲鳴を上げた。  それを聞いて、「は  はは  」と笑い声が返る。 「ほら塵虫、右手出せ」  咄嗟に右腕を庇おうとした僕を振り下ろされたバットが襲う。 「さんかーい」 「 う゛  ぁ」  庇い損ねた二の腕がミシリと音を立てて、背筋が寒くなるような痛みがくる。  転げるようにして逃げながら、「やめて もうやめて 」と譫言のように懇願するも、作り物のような顔は微かな微笑を湛えたままで動くことはない。 「かおるも、やめてって、言わなかった?」  大人の男の、響きのいい声が幼児のような問いかけをしてくる。 「あ  だから、 ぅ゛  の、   」 「よーんかい」  太腿に金属のバットが振り下ろされて、その勢いで体が跳ねて喉から形容しがたい声が漏れた。  けれどそれはすぐに闇に静寂に吸い込まれて行って、誰かに助けを求める手段にはなってくれない。  喉につっかえるような刺激があり、反射的に咳き込むと口からどろりとしたものが出て、ぼと と土の上に落ちる音がする。  どこかの段階で鼻血が出ていたんだろう。  そのせいで息が詰まりそうになって固い地面に縋りつくようにして噎せ込んだ。 「休むなよ、ごーかい」  間髪入れずに腹に振り下ろされた時はさすがに一瞬意識が飛んだようだった。  気づけば ────右手の上に靴底がある。 「あ゛ あ゛ あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛    ────っ」  掛けられて行く体重の下で、握り締めていた拳がミシミシと音を立てて行く。  靴底に擦られる皮膚は熱くて、  潰される肉は灼けそうだった、  限界まで撓ろうとする骨だけが痛みを訴えていて……  ……ゴリ 「ぁ  ────っ‼」 「は は  はは」  鈍い音を立てた足元を見下ろして、彼は愉快そうだ。 「は!は!  あー……五回終わったからー……じゃあ、質問タイムだ」  そう言うと彼は金属バットで地面をコツンコツンと叩き始めた。  一定のリズムで聞こえてくる金属のきぃんとした音が神経を逆なでて、歪な方向に歪んだ指の痛みを増幅させるかのようだ。  きっと彼もそれをわかっていて、そうしているんだろう。 「あの時、かおるを襲った犯人、三人の名前を上げろ」  低い低い、地獄の番犬の威嚇のような声……業火に焼かれてなお復讐を諦めていない執念を垣間見せる。  僕が発情剤を打って、部屋に押し込めたβの復讐をするために。  彼はあれからずっと、ご丁寧に何度も僕の右手を潰しにくる。 「そうすれば、お前の番が回ってくるのが少し遅くなるぞ?」 「   ぃ、や、  だ」  犬歯がぐらついているのに気が付いた。  やっと前回の歯の治療が終わったって言うのに…… 「じゃあ、もう五回、行くな?」  ビー玉のような目が僕を見下ろして、唇の端が引き攣るように歪み、そして赤い汚れのついた金属バットが振り上げられる。  ああ、彼の目に僕が映っている…… 「いっかーい」 「  ぃ゛ ぎ   っあ、  あぁ  」  虫けらを見るような目が僕を見下ろす。 「にかーい」 「ひ  や、も  や、え  ぇ゛  」  いや、彼にとっては僕は虫ではなく塵なんだろう、 「さんかーい」 「 ぃ゛ だ  ぁ   っ」  もしくは、かけがえのない人を刺した気にも留めてなかった害虫、 「よんかーい」 「   ぅ  あ 、も  」  なぜなら、僕が彼を描く時に左手を使っていたのを、覚えていないんだから、 「ごぉかぁーい」 「ぃ   ぃ、や    」  瞼が腫れてうまく開かない目でも、彼が僕の方を見ているのがわかって……それで満足だ。  ──── 僕が口をつぐんでいる限り、君は永遠に僕のαなんだから…… END.

ともだちにシェアしよう!