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かげらの子 63
「どうしてそんな顔をする?何が悲しい?」
懇願する柔らかさで問いかけると、宇賀はやはり悲しげな顔で首を振って窓を見る。
美しい山の緑を映す瞳に自分が映らない苦しさに、捨喜太郎は言葉が続けられないままに宇賀を抱き締めた。甘いようでいてそれでもすっきりとした匂いが鼻を擽り、捨喜太郎は知らず知らずのうちにその髪に鼻先を埋めてもっとその匂いを欲してスンスンと鼻を鳴らす。
頭の中を撫でられるような奇妙な高揚感に腕に力を籠めると、細くしなやかな体が捨喜太郎の腕の中で小さく動く。
逃げる訳ではない、けれどこの抱擁を良しとしているようには思えない動きに、捨喜太郎は焦れる心を表すように首を振る。
「どうして……何も言ってくれない?村人にやり込められる私は不格好だったか?幻滅したのか?それとも 」
言葉を募ろうとした捨喜太郎の肩をさっと宇賀が掴み、薄めだが形の良い唇を耳元に寄せて「話すの だめだから」と極々小さな声で囁いた。
何 と尋ね返そうとした時、廊下の遠くの方からぎしりと床を踏みしめる音が響く。
体を清める為に湯を沸かしに行った留夫が戻って来たのだと、捨喜太郎が抱き締める腕の力を緩めた途端、するりと黒髪が翻る。
「宇賀⁉」
吹き込んだ風で黒髪が混ぜられ宇賀の細い首筋を露になると、白い肌に赤い鱗模様が鮮やかに浮かび上がるのが見えた。
それ自身が生きていると言う訳でもないのに、まるで宇賀を縛り付けるかのような禍々しさで……それに怯んだ隙に、宇賀は窓の外へとぱっと身を躍らせると、後ろも見ずに部屋を飛び出してしまう。
追いかけようと桟に手を突いた所でもう宇賀には届かない。
あっと言う間に山へと駆けこんでしまい、かしんかしん と腰に結わえた袋からする音だけが木の葉の隙間から漏れ聞こえるだけで、陰に逃げ込む蛇のようにその姿を見つける事は叶わなかった。
手酷く振られた気分で馬鹿みたいに口を開いて呆然としていると、軽い音をさせながら戸が開いて留夫が部屋を覗き込んだ。
「こちらにおいでと窺いまして」
「あ っ はい」
笑顔のないまま留夫は部屋をぐるりと見まわした。
数歩で奥にまで届いてしまう程のその部屋では隠れる場所もなければ、人の人数確認をわざわざする程ではない。宇賀の不在を確認してほっとしたのか、留夫は堅苦しい表情を外して普段通りの細々と気の付く愛想のよい顔を覗かせ、傍らに置いた盥を引き寄せる。
「お湯を持って参りました、お顔から拭いて参りましょう」
幾枚かの手拭いと共に軟膏も見えて、あれを宇賀に渡す事が出来たら……と後ろ髪を引かれながら窓辺から離れ、手拭いを絞る留夫の傍らに腰を降ろす。
殴られて腫れぼったくなった目元を見て、萎むように睫毛を伏せて頭を下げる。
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