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かげらの子 104

 けれど拙いそれは赤子にすら分かってしまうのか、再び眠りに落ちる事無く更にばたばたと手足を振り回し始めてしまい、捨喜太郎はどうしようもなくなって水屋に消えた伊次郎を大きな声で呼んだ。 「もう暫く、お願いします」  救いの声でも聞こえてくるのかと思ったが、返ってきたのは冷たい一言で、捨喜太郎はほとほと困り果てて伊次郎がしていたように赤子の尻をぽんぽんと叩きながらあやしてみた。  「あー……」と歯のない口が開いてか細い泣き声が零れ出す。  幼く力のない者の懇願に応えてやりたくともどうにもできず、泣きそうな気持で腕の赤子を優しく抱き締める。そうすると今にも涙を溢れさせそうだった赤子が、きょとんとした顔をしてぱちりとしたつぶらな瞳を捨喜太郎へと向けた。 「…………うが  」  涙を湛えた丸い瞳は夕日を映して輝く湖面のようで、一心にこちらを見上げるその顔立ちは……確かに宇賀の物だった。  手拭いに浸した重湯を赤子の口に含ませながら伊次郎は、赤子相手に狼狽えていた捨喜太郎を思い出しては笑いを堪えたような表情をしていて、捨喜太郎はそれがばつが悪くて逃げるように体を竦める。 「  救われるでしょう」 「は ?」 「この小さな生き物に。死を悼む間も与えてくれない」  必死に食らいつこうとするその姿は生命力に溢れて、捨てられたこの村と不釣り合いな程光り輝いて見え、確かに……と頷き返す。 「明日、宇賀の墓にご案内します」 「…………貴男は、どうして宇賀を気に掛けるのですか?」 「   」 「宇賀にこの村の訛りはなかったし、誰も言葉を喋る事が出来ると知らなかった。言葉を教えていたのは、貴男でしょう?」 「   ええ」 「祭りの時、貴男が帯に挟んでくれた陶器片があったから縄を切って逃げる事が出来ました、窓を開けてくれたのも、貴男ですね。何故です?」  伊次郎は穏やかな表情のまま捨喜太郎に視線を遣らず、愛おしそうに腕の中の赤子を見詰めたままだった。 「湖の水を抜くように言ったのは逃げ道を確保する為でしょう?」 「    」 「艶のない黒い着物は、暗闇に紛れて逃げやすくする為だったのでは?」 「    」  沈黙の間に赤子の無邪気に吸い付くちゅうちゅうと言う音が耳を打つ。  仲の良い夫婦ならば穏やかな空気にもなりそうなものだったが、二人の間には妙な緊迫感が横たわっていた。 「宇賀を、この村から出してやりたかったんです」 「  どうして?」  そこまで執拗に聞く必要も無かったはずだが、捨喜太郎は胸がざわざわとする感覚を押さえつけたくてじっと答えを待つ。  やがて「崎上さん」と痺れを切らした捨喜太郎が声を上げると、伊次郎は詰めた息をはぁと吐き出して困ったように微笑する。 「私が、ここに囚われて哀れだと思ったからです」  ちゅぅ……と吸い付く音が途絶えて、赤ん坊はむずがって手拭いから口を離していやいやと暴れ始め、その力強さだけが未来を感じさせるものだった。

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