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第6話
ムクと穏やかで、どこか歪な日々を過ごしていたある日のこと。休日だと言うのに朝から晩まで机にかじりついて勉強する慶太を、ムクはじっと観察していた。テスト期間で必死になって記号やら公式やらを頭に詰め込む慶太に何か感じ取ったのか、邪魔をすることも無く大人しくしている。
予定した範囲より、少し進んだところで慶太は大きく伸びをした。時計の針は午後9時を指している。膝を抱え込んで控え目な音量でテレビを眺めているムクの瞼は、今にも閉じてしまいそうだ。部屋にムクがいても全く気にならずに集中できるのは、ムクが纏っている空気感のお陰なのか、それとも自分が図太いのか果たしてどっちなんだろう。
「ムク」と声をかけると、閉じかけていた目がパチリと開いてこちらを振り返る。目が合って嬉しそうに揺れる栗色の髪。無意識のうちにその髪に手を伸ばそうとしている自分に気が付いて、誤魔化すように立ち上がって伸びをした。
あぶねえ。今何しようとしたんだ俺は。
「勉強終わった?」
「ああ。」
もう今日はシャワーを浴びて寝てしまおうと、机の上に乱雑に並んだノートやら教科書やらを適当に整頓していく。その中の1冊を、細い手が持ち上げたのを視界の端に捉えて動きを止めた。パラパラと興味深そうにページをめくるムク。
「けーたはさあ、何の勉強してるの?」
「んー、薬系のこと。」
「薬?難しそう。」
「まあ、めっちゃムズい。」
教科書に視線を落としたままの長いまつ毛が揺れる。ムクが慶太のことについて聞いてくるのは珍しい。慶太がどこの大学に通っているのかもムクは知らないというのに。
暫く文字を眺めて、ムクは本を閉じた。それからこちらを見上げ、何度か迷うように息を吸い込んで口を開く。
「勉強ばっかり嫌にならない?」
「まあー…。正直勉強は好きじゃないけど、自分で望んで入った学部だし。」
勉強が嫌か、と聞かれて否定する人は少ないだろう。勉強せずに不自由なく生きていけるなら、慶太だって勉強なんてしていない。だからきっとムクが聞きたいのはそんな事じゃない。
どうして医薬系の学部を選択したのか、当時を思い出してどう答えたらいいものかと迷う。
この学部を志望した動機は一言で言うなら、妹の病気だった。妹は、現代の医学では治らない難病に侵されて、慶太が当時13歳の時に7歳という若さで亡くなった。どうしてこんなに大きな病院で治すことが叶わないのかと、悔しくて悔しくて何日も泣いていたことを今でも鮮明に覚えている。あの時から、きっとどんな病気でも治せる薬を開発するんだと文字通り夢みたいな夢を掲げてここまできた。けれどそれを、ムクにどこまで話していいのか分からない。自分の悲しい記憶を誰かに話す勇気はまだなかった。
「…薬をさ、開発したいんだ。」
結局言葉にできたのはそれだけ。
「そっか、…そっか。」
ムクも、それだけしか答えなかった。
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