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03b マクスウェル空軍基地

 イェークが降ろされたのは、やはりどこかの空軍基地のようだった。  見渡す限りの草原の中に、大小さまざまな滑走路が縦横無尽に交わり合い、砂埃が舞うと終端が霞んで見えないほど遠くまで伸びている。イェークのいたサディオ空港とどこか共通した光景ではあるのだが、決定的に規模が違っていた。  突然近くで始まった轟音に首を竦めると、小型の深緑の戦闘機が今まさに離陸していくところだった。あっという間に離陸のための速度……おそらく旅客機と同じくらいの速度までに達し、難なく飛び立っていく。機体の下には、少なくとも二本のミサイルがぶら下がっていた。  その風圧と、草原から吹く冷たい風を同時に受けて、イェークは黒い外套の襟をかき合わせた。イェークが震えている様を見兼ねたシグルズが、自分の外套を着せ掛けて寄越したのだ。異様な冷えを感じる。今が明け方だからというわけでもないだろう。恐らくここは、サディオ空港よりもかなり北にある施設なのだ。 「あの……ここは?」  それくらい訊ねてもいいだろうと思い、隣のシグルズを見上げる。 「マクスウェル空軍基地だ」 「……ということは、すぐ向こうは海? ワシルトラス州の、西岸の……」  ワシルトラスはこのユーグ帝国の首都であり、皇帝の住まう城塞がある州だ。何だったか名前は忘れてしまったが、二つの大貴族が領地をほとんど二分している。首都だけあって、城塞近くは人口も多く、商業的にもかなり栄えているという。さすがに、空軍基地を作れるような見渡す限りの大草原と大海原では、そういった熱気は感じられないようだが。 「ここには輸送・後方支援部隊と、展示飛行部隊が詰めている。皇帝の専用機もここに離着陸する。ユーグ城塞の最寄りの基地はここだからな。だがこれからは、防空任務も行っていく」  シグルズが建物の中に入っていくので、置いて行かれないように後を付いていく。  入ったのは格納庫のようだった。学校の体育館を十倍以上に引き伸ばしたような空間に、大小様々な航空機が並んでいる。整備工場も兼ねているのだろう、遠くにはエンジンが取り外された輸送機が見える。  だがその中で一際イェークの目を引いたのは、それまで見たこともない機体だった。  全体を洋上迷彩の濃紺と灰と青の模様で覆われて、光沢が乗るほどに磨き上げられた外装は、軍用機とは思えないほど「美しい」。恐らく大きさは、旅客機の最大規模のものと並ぶくらいだ。だが翼はまるでステルス機のように三角で、どんな飛び方をするのか想像も付かない。そして何より、そのシルエットがあまりに独特だった。下半分は普通の飛行機と遜色ない。底には車輪の格納装置があるし、胴体の上辺あたりから延びた翼も戦闘機にはよくある形だ。だが、肩翼の付け根にいくつも乗っている巨大な筒は、砲塔なのではないだろうか。洋上に浮かぶ軍艦を連想させられた。  そこでイェークは我に返り、随分先へ行ってしまったシグルズを慌てて追いかける。  あのような新しくて立派な機体は、自分には関係ないので見上げるだけ時間の無駄だろう。選ばれたエリートが機長となり、お姫様のように着飾った操舵手〈ラダー〉が、操縦桿を握るのだ。ほとんど性奴隷としての道を自覚させられたイェークとは、別の世界の話なのだ。  連れて来られたのは、おそらく高官の居住区画の一室だ。ホテルを思わせる建物の、その高層階でエレベーターを降りたシグルズは、迷いのない足取りで先へ進んでいく。それに無言で付いていくのだが、だんだん気が引けてくる。深い紅のカーペットは靴が沈み込むほど柔らかいし、白亜の壁紙が落ち着いた暖色の照明に照らされている様は、いかにも裕福層がくつろぐための色相だ。裕福どころか、そもそも準市民であるイェークが通っていいような廊下ではないはずだ。フライトバッグを両手で抱えて歩くうちに、肩が縮こまってしまっていた。  向かって右側では大きな窓が一列に繋がっていて、先ほどの飛行演習場が見渡せる。左側には等間隔に扉があり、その一つの前でシグルズが立ち止まった。  扉には取っ手はなく、代わりに正方形の板が付いている。それにシグルズが手の平を付けると電子音が小さく鳴り、スライドするように扉が開いた。 「ここがお前の部屋だ」  そう言われて中へ入るが、そこは予想に反さずホテルのスイート・ルームのような部屋だった。イェークが職場のテレビで見た高級ホテルと少しも違わない。  外と同じ白亜の壁紙に暖色の間接照明、床はベージュのカーペットだ。入り口すぐにキッチンや水回りがあり、廊下を抜けると広々とした寝室だった。一番奥には深いグリーンの遮光カーテンが閉められているので、それが大窓であることが分かる。その窓の向かいにはキングサイズはあろうかという大きなベッド。そのベッドと窓との間に、幅の長い大きな机と、それを囲むように椅子が二脚置いてある。家具や調度品はダークブラウンで統一されていた。  シグルズはベッドの脇を通って、部屋の一番奥のカーテンを半分開いた。向こう側は大海原だった。やはり、ここは首都ワシルトラス州の西岸なのだ。  だが、よく見ると靴が転がっていたり、机の上にペンや紙袋が乗っていたり、台所にも食材があったりした。 「えっと、誰かが先に住んでるみたいですけど……」 「俺が住んでいるからな。お前は試用期間の一兵卒だぞ、個室などあるか。居候だ」 「はあ……」  イェークはキングサイズの広々としたベッドを見下ろした。「乱暴な」ことになっても、いかにも持ちこたえてくれそうなベッドだ。  窓際の机に置かれた紙袋の中を確かめていたシグルズが、その紙袋をイェークに押し付ける。 「着替えろ」  紙袋は紺色の服が入っているようだった。続けて、机の上に箱のようなものがドサッと置かれる。 「それから、これを丸暗記しろ」  その箱はよく見ると、書類の束を綴じた二つのバインダーだった。片方は軍紀で、もう片方はフライトマニュアルらしい。  それだけ言うとシグルズは玄関へ踵を返してしまう。 「え、あ、あの」 「何だ」  思わず呼び止めたはいいものの、具体的に質問があって呼び止めたわけではなかったので、二の句が継げない。聞きたいことはそれこそたくさんあるのだが、その優先順位が付いていないどころか、リストアップも出来ていない。 「部屋のものは勝手に使え。浴室もだ。ただし外へは出るなよ。オートロックだ、出たら戻れんぞ」  次こそはイェークの言葉を待たずに、シグルズは去ってしまった。廊下の先で扉がスライドして閉まる音と、小さい電子音がした。足音は聞こえなかった。おそらく扉も壁も堅牢に作られているので、防音性も高いのだ。  その堅牢な部屋に残されたイェークには、とりあえず手近な椅子に腰掛ける以外に為す術がなかった。  使っていいと言われたので浴室を覗くと、その不必要な広さに半ば呆れた。深く考えると混乱が深まりそうだったので、極力何も考えないようにして身を清める。改めて紙袋の中身を取り出すと、それは紺色の軍服だった。昨日シグルズに付き従っていた下士官と同じものだ。着られれば何でもいいと思い、袖を通す。サイズはだいたい合っているようだった。  窓際の椅子に戻ってきて、軍紀に目を通す。これは丸暗記するのは無理じゃないかとほとんど諦めた。だがフライトマニュアルなら太刀打ち出来るのではと思い、ひとまず始めから最後までを通読することにした。しかしこちらも、ところどころ意味不明な用語があって、面食らう。軍事用語なのかも知れない。どちらにせよ前途多難だと思い知ると、イェークは小さく息を吐いた。

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