7 / 53

04a 着陸不能

 それでも何とか紙束にかじりついていると、玄関で小さな電子音が鳴った。思わず立ち上がってそちらを見ていると、思った通り、シグルズが戻って来たようだ。その口調はとにかく有無を言わせない。 「予定が変わった。付いて来い」  付いて行った先の建物は訓練棟だった。さっき見た軍紀に、基地全体の地図が載っていたので分かる。ただ、その地図は半分くらいが黒塗りになっていたり、そもそもページの上に「極秘」と朱書きされていたりしたので、本当に自分が見ていいものだったのかどうか不安ではある。しかしその名前から察するに、訓練棟は兵卒にとっては最も馴染み深くなる場所ということなのだろう。将校の居住区画よりは庶民的な雰囲気というか、年季の入った校舎のような景観で、多少呼吸がしやすいような気さえしてきた。  一階と二階は会議室や講堂が並んでいるらしい。通り過ぎるタイミングで扉の小窓をちらりと横目で見ると、自分たちとそう歳の変わらなさそうな、若い軍人が講義を受けている。もしこのまま廊下を歩いていて誰かとすれ違ったら、敬礼などをしなくてはならないのだろうか。もしくはこの静まり返った講堂に放り込まれるのだろうか、などと色々考えているうちに、シグルズは三階へ上がってしまった。  すると、途端に人の気配が減った。もっと小さな個室が迷路のように並んでいる。だいたいの扉の上の表示は「使用可」となっているので、中は無人なのだろう。  その一番奥、やはり扉の上には使用可の表示があるのだが、その扉は他の個室よりも分厚い銀色の鉄製で、最近作られたように見える。これだけ取っ手がなく、代わりに正方形の白い板が貼り付けられている。そこにシグルズが触れると、扉がスライドして開き、中に入れるようになる。上の表示が「使用中」に変わった。  中にあったのは、フライトシミュレーターだった。暗い個室の中に、操縦席を模した装置が一セット置かれている。様々な計器の並ぶパネルと、その前に操縦席がある。だが、その座席がおかしい。椅子というよりはバイクのサドルに見える。それでも足元には確かにラダーペダルのようなものもあるので、どう操縦するのかは何となく想像できた。 「これってひょっとして、さっきのマニュアルの……」 「使い方は分かるな」 「は、はい」 「ならば飛ばせるようになっておけ」  またもや反論を許さない口調で言い捨てると、シグルズは立ち去ってしまった。一体彼は何を急いでいるのだろうか……それも聞けないうちに入り口の扉が閉まってしまった。  ともかく、さっきの紙束よりは実技の方がとっつきやすいかも知れない。そう自分に言い聞かせて、イェークはシミュレーターに向き直る。  バイクのサドルのようなものに、低い背もたれが申し訳程度についている。床に書かれた機種名はさすがに聞き慣れないものだ。一抹の不安がよぎるが、やれと言われたのでやるしかない。  とりあえずおっかなびっくりサドルに乗ってみると、これがなかなか集中できそうだった。腰回りにシートベルトを締め、操縦桿に手を添えると、少し前傾姿勢になった。「運転している」という感覚がかなり強く、不覚にもわくわくしてきてしまう。  しかし、とにもかくにもエンジンを始動させないことにはどうしようもない。周りを見渡すが、普通はあるはずのものが見当たらなかったり、何に使うのか分からないものが並んでいたりする。さっきのフライトマニュアルを置いてきてしまったのを後悔したが、手順は機械が指示してくれる場合もあるので、イェークは記憶を頼りにしながら操作を進めることにした。  あちこちを押したり引いたり、天井から降りてきた緑の半透明のタッチパネルに心底驚いたりしているうちに、エンジンはようやく始動してくれた。何とか滑走路に入ることが出来たので、スラストレバーを動かしてスピードを上げていく。 (この機体、かなり重い……)  機体が指示する離陸速度はかなり速いのだが、そこまでなかなか上がらない。だがエンジンはその分、まだ余裕がありそうだ。 (ええい、飛ぶ気がないから飛ばないんだ。飛ぶ気で行けば飛べる!)  エンジンをふかしてますますスピードを上げる。独特の甲高い回転音が力強くなる。すると、あの浮遊感があった。動揺装置が作り出すニセモノだとは分かっていても、この瞬間の、ある種の開放感のようなものは何物にも代えがたい。機体との一体感とでも言うのだろうか、まるで飛行機が自分の身体の一部であるかのように、操縦の通りに素直に動いて飛んでくれる。この時、自分自身が機体に「肯定」されているような気がするのだ。  前面の窓には空だけが映り、左右の窓の端に映る斜めの地面は徐々に遠くなる。滑走路の景色は草原になり、高度が上がるにつれて、それが遠くまで続いている光景が見えてきた。太い道路もいくつか走っており、その先にある街こそが、ユーグ帝国の首都、ワシルトラス市街なのだろう。  高度を上げたり下げたり、機体を傾けたり、左右へ進路を変えたりして、操縦の感覚を確かめる。なんとなく、という微妙さだが、この独特の操縦席の意義が見えてきた。きっと操縦者の微妙な体重移動を読み取っているのだ。イェークが思っているよりも早く、機体が反応してくれるような気がした。非常に僅かな違いなので、気のせいと言われたら自信がなくなってしまいそうだが、イェークが頭で考えてから実際に操作するまでの間が補助されているような、そんな気がした。  ひと通り操作を試し終えると、イェークはゆっくりと円を描くように草原の上を旋回し、行き先を元の滑走路へ変更した。離陸して、それから着陸してこそ一回のフライトだ。機種ごとに操縦の感じは違うものだし、そもそもこの特殊な操縦席で無事に降りられるのかどうか、試してみないといけないと思った。  ところが、ここからが地獄だった。  おそらく設定されている機種が、イェークのこれまでの操縦経験にないくらい巨大なのだ。最初にハードランディング……着陸時に思いっきり機体の後ろを滑走路にぶつけてバウンドし、シミュレーターの自動音声にやんわり怒られたのはまだいい方だ。その後も、そんなつもりはないのに主翼を折ったと言われ、尾翼も吹っ飛んだと言われ、胴体を削って火花を出したと言われ、ひどい時は行き過ぎて海に落ちた。  何度やっても、離陸は出来ても着陸が上手くいかないのだ。ご丁寧に揺動装置までついているが故に、イェークはこれでもかというほど揺すられて、さすがに疲労を感じてしまった。 「ダメだ……全っ然ダメだ……」  サドルから降りて、その下にへたり込む。文字通り頭を抱える。 「全っ然ダメだ……!」  一度も普通に着陸出来なかった。やっぱり、と思ってしまう。ここに連れて来られたのは何かの間違いだったに違いない。もしくは、本当は旅客機の業務で何かやらかして、体のいい社会的抹殺処分にされてしまったとか……とにかくやはり自分はここにいていい存在ではないと思った。  イェークはシミュレーターの窓に映る、斜め四十五度に傾いた滑走路を見上げた。曲がりなりにもプロとして操縦桿を握っていた者にとっては、まるで悪夢だ。むしろどこかから悪夢だったならどんなに良かっただろうか。あのシグルズという金髪の軍人の冷たい目がこちらを見た気がした。 (ダメだ……やっぱり俺は戦闘機の適性なんてない)  さっき滑走路で見た、目の前で飛び立った小型戦闘機の、逆光になった姿が脳裏をよぎる。同じ滑走路にいた、他の色とりどり機体も、それぞれ能力に応じた役割を持っている。 (でも俺は、役割を果たせない……ひょっとして俺は、もう二度と空を飛べない?)  格納庫で見上げた、紺色の洋上迷彩の、大きな美しい機体。まだ見ぬその操舵手〈ラダー〉が、こちらの失態を見て嘲笑しているとさえ思えてくる。 (だったら、俺の役割って……昨日の晩みたいな……)  目の前にあったのに見ぬ振りをしてきた闇が、ついに無視出来なくなってしまった。息をしているのかしていないのか、だんだん分からなくなってくる。腕が強烈にだるくなり、頭を抱えることさえ出来なくなって、だらりと垂れる。いつまでその状態でいただろうか。 「大丈夫……?」  間近で声を掛けられて、飛び上がりそうになるほど驚いてしまった。いつの間にか真後ろに、黒髪の少年がしゃがんでいた。振り向いたその瞬間、少年のまた後ろで扉が閉まった。ぼうっとしているあまり、少年が入って来たのに気付かなかったようだ。

ともだちにシェアしよう!