15 / 53

08b 支配する者とされる者

 授業を受けていると、自分の身に起こっていることと、ここへ来てから見てきたものが一致してくる。シグルズは『作法』と言ったが、自己の置かれた状況と身分を理解して始めて、適切な身の振り方も分かるというものだ。  これはきちんと制度があるのではなく慣例なので、士官学校で公式に学ぶルールではないとのことだが、このユーグ帝国空軍では、特級市民の身分を持つ高官は、任意に準市民の副官を付けることが出来るのだという。そのような副官に選ばれる者の多くは、容姿も操縦技術も優れており、統計上生還率の高い女性の操舵手〈ラダー〉である。彼女たちは航空機を操縦して高官の作戦指示を実行するだけでなく、各種式典に付き添ったり、プライベートでも彼らを支える立場にあるという。高官が能力を十分発揮するために、その相性を高めておくのは非常に大切である、とのことらしい。  プライベートでも支える……という文字に、イェークは自分の目を疑った。確かにそのような、オブラートに包んであるとはいえあからさまなことは、士官学校の教科書には書けないだろう。イェークが下世話な方向に解釈しているのではなく、実際に教官がそういう話を始めたので、疑いようがない。軍内部の資料として堂々と明記されていることに驚かされてしまった。  しかし驚きは半分で、もう半分は腑に落ちた、という感覚だった。自分はどういうわけか、彼の副官に選ばれたのだ。だから「プライベートで支える」ことが出来るかどうか検分されたし、優秀になるためにこうして勉強をさせられているというわけだ。そのように説明してくれればもっと早く状況を理解出来たのに、と一瞬は思ったのだが、そんな説明をされていたら、いよいよ輸送機には乗らずに怖気づいて逃げ出して、銃殺処分になっていたかも知れない。授業が次の内容に移って、今は煮え切らない思いに囚われている場合ではないことを思い出し、意識を戻す。  イェークにとって、授業は概ね楽しいものだった。軍紀に関するものはやはりまだ遠い世界の話のような気がするが、飛行機の機種の話になると、心躍らせる自分がいた。  けれどふとした拍子に、昨晩の失敗が心の中で頭をもたげる。彼を支えることが必要なのだとしたら、選抜試験で主席を取るだけでは不十分なのではないだろうか。夜も相手が出来るようになってはじめて、副官として一人前なのだとしたら……。イェークはまだ役目を果たせないということになるのだろうか。昨日のように眠くてよく考えられないまま横たわるのも、以前のように恐怖で竦んでしまうのも違うだろう。そもそも男だからそういう身体ではなく、次に求められた時に上手く対処出来るのかどうか自信がない。 「はあ……」  愛想を尽かされるのも時間の問題なのではないか。その日何度目かも分からないため息を吐きながら、イェークは同じページをずっと眺めていた。  夕方、授業が終わり教室のみんなが退散した後も、イェークはその日の内容を復習していた。授業中に色々と思案してしまった自分が悪いのだが、ようやく何とか一日分の内容を飲み込むことが出来た。後は部屋に戻ってから練習問題を解いて……などと思案しながら訓練棟を抜ける。  自分の部屋に戻っていくのはイェーク以外の隊員たちも同じようで、すれ違う人たちは皆どこかホッとした表情をしている。日が傾いて長くなった影を見ながら、勉強道具の入ったリュックを背負い直した。  すると、建物の陰で人の気配がして、イェークは無意識にそれを探す。気配の正体はすぐに見つかった。建物と建物の間、屋外の通路からは雑草を隔てて見えづらくなっているところで、男女が口論をしているようだった。そういうことなら当人同士で決着を付けるものだと思い、立ち去ろうとしたのだが、男の方が手を振り下ろしたのが見えてしまった。立ち去るタイミングを逃してしまい、かといってそちらへ踏み出すタイミングも掴めず、その場にただ留まっているだけになってしまう。  唯一動かせる目でそちらを見ていると、女性の方は同じクラスの顔だった。イェークと同じ銀髪の、どちらかというとお淑やかで、自分から前へは出て行かないタイプだった。半歩だけ接近すると、男性の方は金髪に青い目、特級市民階級だということが分かった。芋づる式に、彼女は準市民、操舵手〈ラダー〉かその候補だったのだとほとんど確信した。 「何だこの成績は! 俺に恥をかかせる気か!」 「す、すみません……その試験の時は……」 「目をかけてやったというのに、どうせ他の男にうつつを抜かしていたんだろう!」 「そ、そんなこと……ひっ」  手が振り下ろされたのは一度きりで、その後はちゃんと冷静に話し合ってほしい……そんなイェークの希望は崩れ、二度、三度、と平手が彼女を襲う。ついに彼女は地面へ倒れてしまった。 「あの……」  ごくたまに、後先を考えない行動をして反省することがイェークにもあったが、まさに今回もそうだった。続けて何と話すつもりなのか決めないままに、第一声を発してしまった。  興奮に肩で息をする男が、ゆっくりとこちらを振り返る。その血走った目がイェークを捉えて見開かれる様子を、じっくりと視認してしまう。そこで自分の行動がますますまずい方へ取られてしまう可能性に気付き、内心で頭を抱えた。 「いえ、俺はそうじゃなくて、たまたま通っただけで!」 「なるほど……貴様が相手か? うん?」 「そうじゃなくて!」  にじり寄ってくる男性に、同じ歩調で下がる。しかしイェークは準市民なので、もし止まれと命令されたらその通りにしてしまう。どうしよう、何と言って逃れよう、と身振り手振りをしているうちに、リュックが何かにぶつかった。  途端に男の表情が驚愕に染まっていく。振り向くと、そこにはシグルズが立っていた。男の方を冷たく見下ろしている。 「シ、シグルズ二等空尉……」 「どうした、俺じゃなくてこいつに用があるんだろう?」  シグルズはイェークの肩を抱き寄せ、顎に手をかけ顔を男の方へ向ける。その手を喉の方へ滑らせて、イェークの軍服のボタンを上から片手で器用に外していく。 「ひゃ、……っ、う……」  シグルズの指と冷たい外気に触れて、肌が粟立つ。こちらを見ている二人にも、鎖骨の下の刺青は見えているだろう。その辺りも含めて、上半身をなまめかしく愛撫される。ぶるっと身震いすると、向かい合わせにされて膝で脚を割られる。思わずよろけてシグルズの服に掴まった。 「残念だが、見ての通りこいつは俺の相手で手一杯だ。俺が代わりに要件を聴こうか」  男性は無言で走り去った。女性も立ち上がって服の土を払うと、イェークとシグルズに一礼して同じ方向へ走っていった。  部屋に戻り、リュックを下ろしてベッドに腰を下ろしても、イェークの網膜に焼き付いているのは何度も無抵抗で平手を受けるあの操舵手〈ラダー〉の姿だった。  気が付くと目の前に大きな手が迫っており、反射的にびくりと肩を跳ねさせてしまった。だが手はイェークの髪を軽く梳いて、撫で付けただけで離れていった。 「何もされなかったか」 「……うん、俺は大丈夫……。ひょっとして、迎えに来てくれた? ありがとう、助かったよ」 「どこで道草を食っているかと思えば……。面倒に巻き込まれそうな時は俺の名前を出して追い払えばいい」 「そっか……そういうもんか、判った」  完全にライオンの皮をかぶったロバだが、ライオンがそうしろと言っているのならいいだろう。それで服を脱がされずに済むのなら、なおのことだ。  しかし、今は自分よりも彼女のことが気にかかった。きっと彼女は男を追い掛けたのだ。その後、二人はどうなっただろうか……。

ともだちにシェアしよう!