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09a ガラス越しの理由(わけ)

「何がそんなに気にかかる?」  リュックの中に手を入れただけで中身を取り出そうとしないイェークに、シグルズは何かを感じ取ったらしい。 「さっきの人、大丈夫かなって……」 「後は当人同士の問題だ」 「そうだけどさ……」 「少なくともお前には関係のないことだ」 「……そう、だけど」  上着を脱いでクローゼットに掛けたシグルズは、タブレット端末を取り出して操作している。イェークには背を向けて、その画面の内容だけを注視している。 「分かったら勉強だ。あのクラスで主席は一筋縄ではいかんぞ」 「そうだけど……」  まだ教科書を取り出せないイェークに呆れたのか、シグルズはため息をつく。 「ああいう輩はほっといても自滅するだけだ。時間の問題だろう」 「自滅?」 「上手くいっていないペアは成績が落ちるということだ。あの操舵手〈ラダー〉は運が悪かったが、主人があれでは勉強どころではないだろう」  イェークは呆然と立ち上がっていた。教科書の入ったリュックがごとりと床に落ちる。 「そ、それじゃあの子は、ほとんど巻き添えじゃないのか。あんな……一方的な人に選ばれただけで……」 「それが何だ」  特級市民階級の上官は、何ともなさげで、全く気にも留めていない口調で振り返る。 「それじゃ、見捨ててるも同然じゃないかよ! 真面目な子なんだよ、上官があの人じゃなければ、もっと成績が良くなるかも知れない! そんなの巻き添えじゃないか!」 「良好な関係を築けなかったという意味では、別の上官でも同じという可能性もあるが?」 「築けるわけないだろ! 殴ってくるような人と、どうやって上手くやれっていうんだよ」 「そうだな。だがそれはお前には関係ないと言っている」  突然すっと床がなくなったみたいによろけそうになる。 「関係ない関係ないって……そうだけど、殴ってたのは男の方だろ。なのに……」 「平手ぐらい避ければいい」  殴られた頬を押さえて地面に倒れた彼女の銀髪が、自分と重なる。 「本気で言ってんのか? それが、出来るって?」  男の前まで出て行って、その胸ぐらを掴み上げようとして思い止まり、拳を握る。暴力は駄目だという自制だったのだが、保身のためにもそれでいいと冷静に頷く意識の末端にも吐き気がした。そうでなくともこの身体はどうせ抗えないのに。 「出来るわけないだろ!」  喉が痛むくらいの声で叫んでいた。  シグルズがタブレット端末を下ろし、ようやく真っ直ぐイェークを見下ろす。上官への反逆行為と取られても仕方ない。それでも、遅かれ早かれだと思った。こんなシステムがまかり通るところなら、反逆罪で捕らえられるのが今なのか、もう少し後なのかの違いでしかない。 「俺たちは特級市民に従うしかないんだよ! どんなに理不尽なことを言われても、されても、逆らえないんだよ! そういう風に作られてるんだよ! あの子が何したっていうんだよ、真面目な子だよ! 真面目にやってるのに怖い思いするんだよ!」  この男が一言、黙れと言えば閉じられてしまう口だ。だからそれまでになるべく多くを喋ってしまうしかない。 「あんたには分からないんだ! 俺たちが……俺が、どんなに怖い思いしてるのか! その青い目! その目で見られるだけで、震えが止まらなく――――」  見上げた男の目は、サングラスに覆われていた。青い瞳は黒いガラス越しに隠され、よく目をこらさないとその視線の行き先すら窺い知ることは出来ない。青い色が見えないので、その効力がイェークに届くこともない。 「え……」  自分の腑抜けた声が漏れ出る。 「……いつから、掛けてた……?」 「……」  男は答えない。本当は何か言いたいのに、イェークを妨げないために黙っているのだ。 「ずっと……? 迎えに来てくれた時から……? 俺が、怖がるから?」  彼はほとんど表情を変えずに、視線だけを揺らした。 「いつも部屋の中でかけてたのも……俺のため……?」  そっと手を伸ばすと、シグルズは少し頭を下げた。イェークの指が彼のサングラスに触れ、それを少しずらす。空色の透き通った瞳がこちらを向いた瞬間、やはりどきりとしてしまい、サングラスを元に戻す。 「っ……ごめん、やっぱり……直接見ると怖い……」 「……お前はその性質が特に強いようだ。普通はそこまでではないはずなんだが、こうでもしないと話せないのなら、仕方がない」  姿勢を直したシグルズは、少し思案しているようだった。 「……そうだな……俺が甘く見ている可能性もある、か」 「あの子のこと?」 「もしあの操舵手〈ラダー〉がお前同様、睨まれると動けなくなるほどなら……」 「気になるだろ? もし、まだ拗れてたりしたら……逃げ出すことすら出来なかったら」 「判った。少し様子を見て来る」  シグルズは上着を再び着込んで、タブレット端末だけを持って出て行ってしまった。  残されたイェークは窓際の席に着き、ようやく教科書を捲り始めた。じっくりと中身を頭に入れる。シグルズの言う通り、あのエリート揃いのクラスで結果を出すには相当な努力がいるだろう。思えば、それが出来る環境をシグルズは用意してくれているのだ。集中するように促してくれるのも、プライベートな時間を割いて勉強に付き合ってくれるのも、自分の部下を何とかするためとも言えるが、イェークにとっては恵まれた環境ということになる。  ふと気が付くと、机の上には見覚えのある袋があった。イェークが食べていたのと同じ飴玉だ。ユーグ帝国は広いが、南端の街で売っていた商品がこちらにも売っているのかと、少し感心してしまった。袋の裏を見てみると、やはり販売会社はサディオにあるらしい。それでも、こんな離れた土地でも手に入るものなのかと、その土地で貨客機の操縦士をしていた身としては少し懐かしい気持ちになった。それにあの人も見かけによらずこんな甘い物を口にすることがあるのかと、そこは意外に思いながら、袋は元の位置に戻しておいた。

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