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10b 青と藍の狭間で舞う

「ほう、俺に恥をかかせるつもりか」 「何でそうなるんだよ?」  どうやらシグルズは本気らしい。二度目の蹴りが座席を襲う。 「そこ脱出装置があるんだぞ、冗談でも蹴んな! ……ああもう分かったよ!」  思い切りエンジンをふかして速度を上げ、ひとまず水平を保つ。空を見上げ、意を決してぐっと操縦桿を手前に引く。機体は急上昇を始め、全身が重力で座席に押し付けられる。エンジンの轟音と自分が息を詰める呻き声がごちゃ混ぜになって歪む。ジェットコースターの縦一回転の要領で、二人を乗せた戦闘機は丸い軌跡を描いて高度を上げ、逆さまになった。空と海が逆転した世界に一瞬目を奪われるが、すぐさま姿勢が崩れない程度に操縦桿を右に倒し、横転する形で機体の上下を水平に戻す。 「お、おお……なんとかなった」 「なっとらん」  シグルズの言葉の通り、向こうはこちらの動きに気付いたのだろう。突然背面飛行を始めたかと思うと急降下し、前回りのようにして後ろへ方向転換してしまった。 「あーっ!」 「ケツに付かれるぞ、スプリットSだ」 「な、斜めのやつか?」 「『出来ない』か?」  この機体の操縦桿はイェークに忠実だった。機体の性能がいいというのはもちろんだが、一回転したことで重力に慣れたのだ。計器類の位置や表示も覚えたようで、見つめなくても一瞬で読めるようになってきた。 「いや……出来る!」  一回大きく息を吐いて、右手で操縦桿を持ち直す。ゆっくりと右へ倒すと機体は横転を始めるが、速度は維持したままにする。そのまま思い切って横転を進め、景色がほとんど逆さまになったところでぐっと操縦桿を引く。急降下となり、全身が斜め下へ引っ張られる。シートベルトが肩へ食い込むが、さっきよりももっと冷静でいられた。太陽の位置が目まぐるしく変わり、雲の白と海の青が入れ替わる。  ラダーペダルでもバランスを取りながら、さらに操縦桿を引いていると、やがて機体は水平飛行に戻った。前方には、さっきの友軍機の尾翼が見えていた。 「そのまま近付け」  飛行計画の速度は超えているが、機体が出せる最高速度にはまだ余裕がある。イェークは指示通りに、前の機体との距離を詰めた。  相手はこちらを振り切ろうとしているのか、頻繁に方向を変えようとしている。その度にイェークも追尾するようにして、すぐ目の前に迫った状態を維持しておく。 「そうだ。真後ろにいろ。……そのままだ」 「これでどうするんだ?」  シグルズは答えない。何かに集中している。すると機体の下から何かが弾ける音がして、イェークは思わず首を竦めた。 「ウワッ!」 「間抜けな声を出すな。ただのペイント弾だ」  気が付けば、前方の機体の後部にはべったりと黄色の塗料が塗られていた。 「そんなの積んでたのか……」  友軍機も自分が絵の具を被ったことには気付いているのだろう。恐らく何かの合図として機体を左右に揺らした。それを最後に、方向を変えて飛び去っていく。すぐに肉眼で見えなくなり、レーダーの反応も弱くなっていった。 「……何だったんだ、あれ」 「フン、深追いはしなくていい」  再び平穏な空に戻ったことを悟り、肩の力を抜く。しかし軍人というものはなんて荒い操縦をするのだろうか。近くを飛ぶ仲間に全く親切じゃないし、あまつさえ同乗者に蹴りを入れるなど、どうかしている。  だが、ここではあのような飛び方こそが必要とされているのだろう。敵機があらかじめ連絡してくるなどということはありえない。だから咄嗟にであっても、的確で正確な機動をして対処しなくてはならないし、いつもそう思って訓練しなくてはならないのだ。  そして空中戦で勝機を掴み、先ほどのように照準器で相手を捉えることが出来たなら、引き金を引かなくてはならない。自分と同じように空を駆ける翼を、手折らなくてはならない。そうでないと、手折られるのは自分の翼だからだ。  ……そうこうしているうちに、飛行終了時刻が迫ってきていた。 「時間だな。基地に戻る」  操縦桿とラダーペダルを操作して、ゆっくりと旋回する。ともすれば迷子になりそうなほどの一面の群青の上で、曲がる方向へ機体が傾く。心地よい重力を感じながら窓の外を覗くと、果てしなく広がる海が凪いでいる。  シグルズが呟くように言った。 「お前が乗る機体は、これと同じくらいの速さで飛ぶ。音速も超える」 「えっ? 大型機じゃなかったのか?」 「大型だが、音速も超える。お前は特に訓練もいらんだろうが、さっきの速さと重力の感覚は覚えておけ」 「そう、なのか……」  なんとなく、シグルズの意図を察する。これはおそらく、本当に褒美という意味だけで乗せてもらえたのではないのだ。しばらく空を飛んでいなかったイェークが、操縦の感覚を失わないための機会であり、与えられる機体への慣らしなのだろう。  自由に風に乗り、明るい青い世界と底の見えない海との中間を突き進みながら、イェークは前だけを向いていた。遥か向こうに、ワシルトラスの海岸線が見えてきていた。

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