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12b 彼が見ていた夢を見た

「珍しいな、飲んで来たのか?」 「今日ばかりは断り切れなくてな」  花束はとりあえず台所に置いて、シグルズの上着を脱がせてハンガーに掛ける。  ベッドに腰掛けたシグルズは、酒のせいなのか疲れのせいなのか、少し物憂げに見えた。 「あのさ……」  疲れているところに悪いなと思いながらも言わずにはいられなくて、その隣に座って口を開く。 「昼間のアクロバット飛行、見たんだけど」 「……そうか。あれを見ていたのか」  授業をサボったことを怒られるかなとも思ったのだが、シグルズは言及しなかった。 「すごかった! ……なんか、食い入るように見ちゃったよ。知らなかった、あんたも操縦士だったなんて……。いや、考えてみりゃ俺に家庭教師が出来るんだから、そうだよな」 「まあな」  シグルズは少し自慢げに笑う。しかし、そこには寂しさも乗っている気もした。お世辞を言っていると思われているのだろうか? イェークはなおも言い募る。 「本当にすごかった! なんて言ったらいいか分からないけど! でも、俺には分かるよ、めちゃくちゃすごいことやってるんだって」 「……お前には分かる、か」 「分かるよ!」  機嫌が良さそうに、シグルズはイェークの髪を撫でる。 「それならば、この三年間の意味もあったというものだな……」 「三年?」 「俺が飛行演技隊に配属になってから今日までで、だいたい三年だ」 「そっか……三年かかるのか……。でも、三年であそこまで飛べるようになるなんて、やっぱりすごいんじゃないのか?」 「まあな。この基地で俺にしか出来ない技も、いくつかあるぞ」 「へええ……!」  しかしシグルズは、どこか沈んだ目をして俯いた。帰ってきたばかりなので、まだサングラスはしていない。その青い目が、床へ伏せられている。 「そうか……。最後にお前がそう言うならば、踏ん切りも付くというものだ」 「……最後?」  何かを聞き間違えたのかと思って、顔を覗き込む。 「な、なんで?」 「今日で後輩への引き継ぎも終わって、正式に異動だ。あの花束は、隊のメンバーから送別会でもらったものだ」 「ど、どうして異動なんだよ! え、ひょっとして、どこか悪いのか……?」  シグルズほどの長身で戦闘機に乗るのは、かなり負担が大きいだろう。自分の体重が重ければ、それだけかかる重力も増す。例え小柄な人物でも、目が悪ければ乗れない。血圧や、その他の数値も頻繁にチェックされる。 「いや。この身体はまだ耐えられる」 「だったら、どうして!」  シグルズはもう一度イェークの髪を撫でて、腕を下ろした。 「実家の命令だ」 「……」  いつだったかの、シグルズの伯父のヴォルス空佐の言葉が再生される。ドレッドノート家の、繁栄のためだと。 「そんな、……」  その後シグルズは、イェークに飛行機は好きか、と訊ねた。好きだと答えたら、彼は俺もだと言っていた。あれは本心だったのだ。本当に好きでたまらなくて、シグルズは操縦士をしていたのだ。ハンデとも言える長身をカバーするために、人より多くの努力をしてでも、空を飛んでいたかったのだ。 「……」  彼の沈黙こそが全てを物語っていた。相手はこのワシルトラス州を二分するほどの一族だ。その血縁者であっても、否、血縁者だからこそ、まだ若いシグルズが逆らえるはずがない。昼間はあんなに縦横無尽に飛んでいたのに。重力からすら解き放たれて、シグルズは確かに羽ばたいていた。自由だったのに。  シグルズはタブレット端末を取り出して、イェークに持たせた。 「去年の年末の、皇女殿下の誕生祭だ」  あの白い塗装に赤と青のラインが入った機体が、青空の下を行き交っている。行進曲風の音楽が、人々の歓声で時々打ち消される。  逆さになって飛んだり、白煙で色んな図形を描いたりする。そして何より、五機揃って密集し、急上昇する軌跡が真っ直ぐなことに息が詰まった。 「……綺麗だ。本当に、鳥みたいだ」  言っている途中で声が震えた。苦しくなるくらいに綺麗だった。  そうやって鳥のように翼を操るのは、見た目ほど優雅なものではない。危険だって伴うし、何時間も厳しい訓練を積んで、それでやっと出来るか出来ないか、才能の有無が判明するという芸当だ。  シグルズがどれだけ本気で打ち込んできたのか、分野は違えど同じく操縦桿を握る者として、想像すると胸が詰まった。否、やったことのない、やろうとしたことのないイェークには分からないだろう。シグルズがどれだけアクロバット飛行に魅入られていたのか、どれだけ好きだったのか。 「俺が人前で飛行演技をしたのは、この一回だけだ。三年間で、たった一回だけだった……」 「…………」  涙が滲んでしまった。  彼はどんな思いで命令を飲んだのだろうか。この後も彼は訓練を続けていただろう。次の晴れ舞台のために、一日も欠かさず厳しい訓練を続けていただろう。  やがて映像は終わってしまった。タブレットは真っ黒になり、何も映さなくなった。……終わってしまった。 「これからは、お前との訓練に専念出来る」 「……うん」  聞いてはいけないことなのかも知れないと思いつつも、今しかチャンスがないような気もして意を決する。 「間違ってたらごめん……。ひょっとして、さ……」  遠目からで、その表情どころかヘルメットで素顔すら見えなくても、彼は楽しそうに見えた。自分の操縦への自信と緊張感と、空を舞う開放感の三つ巴を愛していたに違いない。 「本当は、あんたはスレイプニルを、自分で飛ばしたかったんじゃないのか……?」  操縦席に座るのと、後ろから作戦指揮を執るのとでは、違うのではないだろうか。ましてや操縦士の中のエリートとして活躍していたのであればなおさら、自分以外に操縦を任せるというのは、どんな気持ちなのだろうか。  シグルズは意外そうな顔をしたが、イェークからは視線を外してしばらく押し黙った。それこそが答えだった。 「そんなに……っ。そんなに大事な操縦桿を、俺に、渡しちゃうのかよ……」 「……俺では駄目だ」  その言葉の裏の意味は、心情的にはイェークの言葉を肯定し、現実を否定したいというものだ。 「俺はこれまで、小型の戦闘機にしか乗ったことがない。大型機の訓練を始めたとしても、スレイプニルのロールアウトには到底間に合わない。……シミュレーター上で俺は、お前のようにシギュンなしで着陸することは一度も出来なかった」 「でも、シギュンシステムはいつも稼働させておくもの、なんじゃ……」  けれどシグルズの意図も理解出来る気がした。仮にどこか一箇所が故障しても、操縦士は冷静に対処しなくてはならない。たとえ故障したのがエンジンでも、計器でも、航行補助システムでも。機体や命を預かる以上、それが出来るのは義務だ。

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