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18a 壁のシミ

 走り出したリムジンのスモークガラスには、新緑に染まっていく草原が映っていた。背の低い蔦や雑草の生い茂る途方もないほど広大な土地を隔てた先に、首都であるワシルトラス市街があるのだという。このリムジンが通っている片側一車線ずつの直線道路だけが、左右に草原を分けている。日差しはイェークがやって来た頃よりもやや強くなり、風に揺れる葉っぱがそれを反射して眩しさを感じるくらいだ。  しかし、そんな景色とは真逆のどんよりとした気分で、イェークはシグルズに頭を下げ続けていた。 「ホントにごめん……」  リムジンの内部は進行方向に対して平行に座席が作られていて、イェークとシグルズは隣同士に、シンフィーとカイは向かいに座っていた。間のテーブルには、ワインボトルとフルーツが並んでいる。  脚を組み変えたシグルズは、ただ小声で答える。 「もういい」 「うん……ごめん」 「……いいと言っている」  シグルズは本当に怒っているのではないと分かってはいるのだが、すぐ許してくれたからこそ、自分が不甲斐なかった。  何故この四人の中で、自分が運転手だと思ったのだろうか。服屋に行くのではなくて、服屋の方が来るような身分の人たちなのだから、車を手配すると言ったら運転手付きの高級車に決まっている。年配の、いかにも要人の送り迎えに長けていそうな運転手だが、その目が丸くなった瞬間が忘れられそうにない。ナビの設定を確認するため先に運転席にいたのだろうが、イェークがドアを開けて乗り込んで来ようとしたので、驚いて顔を上げたのだ。彼もきっとプロシードの苗字であり、まさか朝っぱらから仕事を奪われそうになるとは思ってもみなかっただろう。  自覚が足りないと言われた数日前を思い出してしまう。本当に足りていなかったことを痛感した。  シンフィーは笑いを堪えようとして、口の端をひきつらせ続けている。時折、「クッ……」と息を漏らしてはカイから肘突きを喰らっている。カイは「どんまいどんまい!」と流してくれたが、そんなカイすらもきょとんとさせてしまったことを思うと、ウンと返事するのがやっとだ。  そんなイェークを見かねたのか、シグルズが肩を抱き寄せて凭れさせてくれる。 「俺こそ、怒鳴るほどのことでは……なかった」 「え……」  言葉を懸命に選びながら、自分にも非があったと言っている。シグルズにとっては当たり前のことを、察することが出来なかったのはイェークなのに。この人が言いそうにもないことを言い出した理由は一つだ。イェークが落ち込んでしまったから、フォローしようとしているのだ。その気持ちが言葉に溶け出しているようで、少し胸が詰まってしまった。 「うん。俺、これから気を付けるから……」  この人に相応しい副官になりたい、そう改めて思った。  車に揺られて数時間、カイとシンフィーは恋人同士のように寄り添い合って座り、こちらには聞こえないような小声でずっと睦言を交わしていた。指を絡ませたり、意味深に笑い合ったり、仲が良いなと思う反面どこを見たらいいのか分からなくなってしまう。  シグルズはタブレットで仕事の続きをしていたので、イェークは横から覗き込んでそれを見ていることにした。配下への指示や事務作業のようだった。  草原の景色はやがて街へと変わっていた。信号待ちをした隙に窓を見ると、大勢のビジネスマンが行き交っている。ここがワシルトラス市街なのだろう。街並みもオフィス街を過ぎると歓楽街になり、その次は再び落ち着いた緑が広がるようになった。草原や森のような手付かずの自然ではなく、わざわざ整えられた庭園のような場所だ。リムジンが止まったのは、その先に現れた白くて背の高いゲートのようなところだった。  運転手が書類を見せると、銃を担いだ守衛がそれに機械を当てている。守衛はすぐに書類を返却し、敬礼をした。  ゲートが開き、リムジンは中へ通される。ゲートの内側も、緑豊かな庭園だった。芝生の中の丸い噴水の脇を通り抜けていく。 「お前ひょっとして、ここに帰るのは正月ぶりか?」  シンフィーがカイの肩を抱いたまま、シグルズへ問う。 「去年の正月ぶりだな」  ははは、とシンフィーが笑い飛ばす。 「放蕩息子だねえ」 「お前に言われる筋合いはない」 「まーな」  イェークは眼前に映る白亜の城館を呆然と見上げていた。 「帰るって、ここあんたの家なのか……? 家っていうか、城じゃないか」  白い壁に縦長の窓が並び、屋根は紺色で、芝生と青空との対比が上品だった。建物の幅は大型の旅客機が二機くらい並びそうだ。中央に鉄格子の開かれた入り口があり、奥はずっと廊下が伸びているように見えた。廊下の他に何があるのか分からない程度には、奥行きもありそうだ。両角には円柱の塔が建っており、その半球状の屋根の上に、また円柱の部屋がある。 「ここは本館だ。今日の会場はこの左奥のホールだったはずだ。俺が住んでいたのは、あっちの離れだ」  シグルズが指差したのは、ゲート側に建っている大きな窓の並ぶ邸宅だった。本館と同じような色彩をしているが、あちらに比べればよほど住居らしかった。  一行は本館の正面入り口前でリムジンを降りたが、シグルズはすぐに踵を返した。かつて住んでいたという、離れへ歩いて行く。 「お、おい?」  イェークが呼んでも、当然シグルズは勝手に一人で歩いて行く。ということは、イェークも付いていくしかない。振り返ると、シンフィーがひらひらと手を振っていた。カイと二人で先に奥へ行っているようだ。シンフィーはまたお尻を触ったらしく、ネクタイを締め上げられていた。  離れの玄関は鍵がかかっておらず、開けるとすぐに吹き抜けの螺旋階段があった。木と艶出しのワックスの香りが広がっている。螺旋階段の左側からふんだんに日の光が取り込まれ、屋内なのに外よりも眩しく感じた。  シグルズが向かったのは上の階で、階段と同じ材質の木の扉を開くと、フローリングに緑の柔らかそうな絨毯が敷かれた部屋があった。

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