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18b 壁のシミ

「変わってないな」  その部屋は埃一つ見当たらなかった。 「誰か住んでるのか?」 「いや。使用人が勝手に維持しているんだろう」  シグルズはイェークを中へ入れると扉を閉めた。そして自分はベッドに腰掛ける。部屋は今のシグルズとイェークの部屋の二倍は広かったが、ベッドの他には飛行機の模型が飾られた棚と勉強机と、扉の側に大きな本棚しかなかった。  本棚は天井まで届くような、大型の図鑑も収納できるものだった。航空機図鑑や気象関係の参考書、航空学校の試験問題集が並んでいる。 「懐かしいな、このシリーズ俺も支給されて使ってた。……ていうか、飛行機の本ばっかりだな。本屋の専門コーナーを棚ごと買ってきたみたいだ」 「俺が十八の時に置いて行ったということは、八年は前のものだ。さすがに古すぎて、もう使えんがな」  次にイェークの興味を引いたのは、棚に飾られた模型だった。近代のプロペラ機からジェット旅客機、もちろん白い塗装に赤と青のラインが引かれた飛行演技隊のものもあった。 「はは、そうだよな……」 「何だ」 「昔から好きなんだなあと思ってさ」 「まあな」  シグルズの原点とも言えるような場所に来られたのだ。なんだか嬉しくなって、もっと見て回りたいと思ったのだが、シグルズは自分の側へ来るようベッドの隣を示した。イェークが従って隣に座ると、いきなり肩を押されて押し倒される。 「え、ちょ……」 「お前をここに連れ込むとは思っていなかったが……。だがベッドがあって時間もある。なら、やることは一つじゃないか」 「な、な、な」  慌てて押し返すが、筋肉質な巨体がのし掛かって来た後ではもう遅い。  シグルズは上手く視線を逸らしてイェークと目が合わないようにしながら、顔を寄せて耳を食む。 「わ、……!」  滑った温かい感触に身をすくませ、背中をベッドに預けてしまう。 「スーツ、皺になる……! せっかく買ってもらったのに」  するとシグルズは器用にイェークから上着だけを引き剥がし、ベッドの下へ放った。自分の上着も同じようにする。 「掛けないと一緒だろ!」 「そのくらいで傷む生地じゃない」 「そ、そうなの?」  むしり取られるみたいにして性急に脱がされるのは今に始まったことではないのに、どこか落ち着かなくて、視線も定まらない。日当たりがよくて、カーテンも引かれていないので明るいせいかとも思ったのだが、きっとそうではない。この部屋全体に、シグルズの気配が充満しているような気がするのだ。どことなくシグルズも、いつも張っている緊張の糸が緩んでいる。そして、引き剥がされている衣服も、寝そべっているベッドも触れているシーツも、全てシグルズのものなのだ。  この身以外は全て彼のもの、否、この身すら彼のものなのだと改めて思うと、心臓がトクンと跳ねた。身体の芯に熱が灯り、早く抱き締めてほしくなる。大事にするとシグルズは言ってくれたが、その言葉の通り、彼はいつも不器用ながらも愛情をもって接してくれる。彼のものになったということは、イェークもまた彼を求めてもいいということなのだ。  どきどきと跳ね続ける心臓を抑えながら、イェークはシグルズのシャツを引く。彼は意図通りに視線をくれた。その熱い眼差しを直接受けることが出来ないのを惜しく思いながら、彼の頬に手を添えて、静かにその唇へ自分の唇を寄せた。  これから立食パーティーだというのに、シグルズは手加減なしに激しくイェークを抱いた。後が辛いと分かってはいても、燃え上がった身体と心を抑えることが出来ず、イェークもまた意識を飛ばしてしまうほど悦楽を貪ってしまった。挿入をねだって、それが叶うと奔放に腰を振り立てた。ひっきりなしに甲高い嬌声を上げて、建物の外まで聞こえたかも知れない。  そうして十分すぎるほど満たされ、火照った身体をベッドに投げ出していると、シグルズは固く絞ったタオルをどこからか持ってきて、頬に当ててくれた。それで身を清めながら、足腰は立つだろうかなどと考える。再び糊のきいたシャツと上質なスーツに袖を通し、元通りにネクタイをきっちりと締める。  ここであったことは二人だけの秘密なのだ。シグルズがイェークをどんな体位で抱いたのかも、イェークが何と言って挿入をねだったのかも。イェークの頬が何故ピンクに染まっているのかも、何故足元がふらつくのかも。これから会う人々は何も知らないのだ。  その優越感があまりに甘美で、イェークはシグルズの胸元に甘えて、微笑みながらため息をついた。  パーティーの会場は、社交ダンスが行われるような大広間だった。中央の大きなシャンデリアは細かいガラスのパーツが無数に組み合わされたもので、見せ掛けのローソクの火が揺らめいている。床はぴかぴかに磨き上げられたフローリングで、光沢が広間の端から端まで続いている。  白いテーブルクロスの円卓が等間隔に置かれており、その上には軽食が用意されている。見るからに上流階級の、特級市民の男女がすでに何組も歓談を楽しんでいる。男性と一部の女性は軍装で、多くの女性は背中が大きく開いたドレスだった。基地で見かけた覚えのある姿もちらほらあり、ヴォルス空佐の操舵手〈ラダー〉の二人も、着飾った姿で壁際にいた。空佐を始めとした高官も参加しているのだろう。  入り口の側で尻込みしているイェークに、シグルズは自分のサングラスを掛けさせた。 「え……これ、掛けてていいの?」 「俺の命令だと言えば問題ない。それに、真ん中まで出て行く必要もない。壁際にいろ」  見ると、シンフィーとカイはすでに輪の中心となっていた。こちらに気付いた二人が、その場を辞してこちらへやって来る。  イェークにはあんな風に、たくさんの特級市民と向かい合ってにこやかに会話をするのは難しいだろう。適当に相槌を打つにしても、サングラス越しでは気を悪くする人もいるかも知れない。そんな粗相をしでかすよりは、壁と一体になっていた方がシグルズの邪魔にならずに済むのだろう……。 シグルズは押し黙ったイェークを見て、言葉を続けた。 「……そうじゃない。ここには不躾な輩もいるということだ。妙な好奇心を持つような奴は相手にするな。必要があれば俺から紹介する」 「あ……。うん、分かった」  側までやってきたカイが、イェークの前に回り込んでサングラスをしげしげと眺める。片手には飲み物を持ったままだ。 「それかっこいいね、イメージ変わるや」  シンフィーもまた飲み物を携えていた。 「お前らおっせーっつーの!」  呆れた顔をしていたが追求せずにいてくれて、イェークは内心で胸を撫で下ろす。 「ったく、とりあえずシグルズは挨拶回りな。お前の口の悪さ……いや、口ベタは知ってるから、付いてってやる。カイ、お前はイェークの世話焼いてやれ。不慣れなんだから、目離すんじゃねーぞ」 「はーい」  シンフィーはシグルズに寄り、誰に話し掛けるかを相談し始めた。そして目配せすると、広間の中央へ歩いて行く。  カイは手元のグラスをイェークに見せた。 「イェークも何か飲みなよ、もらってきてあげる。と言っても、僕たち車輪マークはアルコールは飲めないように出来てるから、ソフトドリンクだけどね」 「っていうか、未成年じゃないか。ありがとう、それじゃあ一杯頼むよ」  近くのテーブルへ寄って戻って来たカイが、グラスを差し出してくれる。ありがたく受け取ると、中身は柑橘類のジュースだった。

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