35 / 53
19a 綺麗な青、鮮やかな赤
「ご飯も食べる? 早い者勝ちだよ、って言っても、多分ここでは無限に出て来るけどね……」
言い終わる前に、カイは表情を変えた。数人がこちらへ向かって来ている。年齢は四十代くらいだろうか、軍装の男性が二人と、それぞれの後ろに、彼らより若いドレス姿の女性がついている。よく見ると彼女たちも軍のバッジを身に付けているので、操舵手〈ラダー〉なのだと分かった。
カイは小さくため息をついて、少し周りを見渡した。シンフィーもシグルズも、声を出して呼ぶには遠すぎるところまで行ってしまっている。数秒の逡巡があってから、カイはイェークの前を遮るように立ち塞がった。
「やあ久しぶりじゃないか」
「また会えるなんて嬉しいよ」
年齢と階級に反して、彼らはカイに対して友好的に話し掛けてきた。けれどどこかよそよそしさと馴れ馴れしさが同居しているというか、遠慮のようなものが覗える。
「どーも、お久しぶりです」
カイは二人と目を合わせていない。寒々しい笑顔の高官に対し、背後の女性二人はあからさまに面白くなさそうな顔だ。敵意が乗っていると言っても過言ではないほどの視線をカイへ向ける。
「最近がんばっているそうじゃないか」
「おかげさまで」
「君を推薦した者みんなが、それを自慢に思っているよ」
「そーですか。それはヨカッタデシタ」
さすがにもう少し愛想を良くした方がいいのではないかと思うくらいに、カイは全く会話を広げようとしない。だんだんイェークの背中を冷たい汗が伝ってきたが、何故かこの高官たちも同じらしい。取り付く島もないと悟っているのに、引くにも引けないのだろうか。
「いやあ、シンフィー君にはもったいないほどとも聞くなあ、ハハハ」
その名前が出た瞬間に、カイのトーンが一段下がる。
「……あんたがたがそれ言っちゃいます?」
ぎくりとして表情を変えた二人は、次はイェークに標的を移そうとしたらしい。ずっとカイのすぐ後ろにいたのに、二人はたった今気が付いたかのようにオーバーに声色を変えた。
「おお、こちらの君は? カイ君と一緒ということは、ひょっとして?」
「えっと、俺は……」
サングラスを外した方がいいのかどうなのかと、フレームに触れたところでカイがそれを制した。
「積もる話があるんでしょ? 初対面の相手に聞かせるには不適切な話がさ」
カイが後ろ手で、「あっちへ行け」の仕草をしている。そしてカイが歩き始めると、とたんに鼻の下を伸ばした二人がそれに付いて行く。ますます不機嫌そうになった女性二人も、仕方なくという調子でそれに倣う。
イェークはそっとその場を離れ、一人になった。カイはちらちらとこちらを見ていて、すぐにでもこちらに戻りたいということが伝わってくる。しかしその意に反して、カイを取り巻く人数はだんだん増えてきてしまった。ついにはカイは周りをすっかり年嵩の男性ばかりに囲まれてしまい、その小柄な姿が見えなくなる。手元に残ったのはグラスとジュースだけだったので、手持ち無沙汰に耐え切れずそれを飲み干す。
飲み干してもなおやることがないので、今のうちに用を足して来ようと思い立つ。シグルズもシンフィーもカイも、挨拶だけ済ませたら部屋へ引っ込むつもりらしいが、その間イェークはとにかく邪魔にならないようにするのが最優先任務だ。それなら、野暮用は今済ませてくるのが適切だろう。来たばかりではあるが、ここではない場所の空気を吸いたくもあった。
周りの見よう見まねで空になったグラスを給仕係に渡し、入り口の警護に手洗いの場所を訊ねる。角を曲がってすぐだと教えられたので、軽く礼を言ってそちらへ向かった。
パーティーが始まったばかりだからだろうか、廊下には人の気配はなかった。ようやく一息つけると思い、一旦サングラスを外す。不自然に暗い視界ではよく色が判別出来ず、目が疲れてくる気がしていたのだ。目頭を押さえると、凝っていた筋肉が楽になった気がした。
すると、角を曲がって来たのは見知った人物だった。ヴォルス・ドレッドノート空佐、度々基地でもすれ違う、シグルズの伯父に当たる人物だ。別に隠れる必要はないのだが、ついうろたえてしまう。だがこんな廊下の真ん中で、しかもお互いにお互いを認識してしまった後では全て遅かった。
「お前はシグルズのところのか」
呂律が怪しい声だった。足取りこそしっかりしているが、少し顔も赤い。まだ本番はこれからだというのに、かなり酒が回っているようだ。
イェークは自分が余計なことをしでかしませんように、会話が最小限で済みますようにと祈りながら、道を開けてただ敬礼をする。
「ふむ……少しは軍人の心得が身に付いたか?」
道を開けたというのに、空佐はわざわざ立ち止まって真っ直ぐにこちらを見る。せめてサングラスを掛けていれば、と思ったのだが遅かった。視界に青い目が入ってきてしまう。何とか切り抜けなければと視線を彷徨わせるが、明らかに目を逸らしたのが丸分かりだ。空佐は不思議そうにして、ますますイェークに接近してきた。
「ん……? 何だ。何か困っておるのか?」
「いえ、その……」
確かに困ってはいるのだが、その原因が貴方であるとは言い出せない。いっそ、イェークの体質について説明してしまおうかとさえ思うが、もしそれでシグルズの立場が悪くなったらと迷いが生じる。近付かれる分だけ後ろに下がっていたら、ついに背中が壁に付いてしまった。空佐の手がイェークの顎にかかり、くいっと顔を仰向けさせられる。
「あっ……」
「それにしても見れば見るほど、あやつが選んだだけのことはあるな……」
空佐はしばらくイェークの顔の造形を眺めていた。なるべく青い目に吸い込まれてしまわないように、目を閉じたり薄目を開けたりしていたが、だんだん手の先の感覚がなくなってしまう。気付けばとっくに、身体は硬直してしまっていた。息さえまともに出来ない。震えをこらえるので精一杯だ。
「あいつとはよろしくやっているのか? さすがにもう関係を結んだだろう」
「っ……それは、」
「ふふ、色っぽい表情をするようになった。さっき抱かれたばかりと言われても納得だ」
まさに図星を突かれて、頬に血が集まってきてしまう。空佐がそれを知るはずがないのだから、たまたま言ったことが本当だっただけなのに。
「あの、どうか……」
どうかその青い目でそんなに真っ直ぐ見ないでほしい、そう喉から出かかっているのに、声も上手く出ない。
「どうした。さては、私を誘っているか?」
嘲笑混じりの言葉と、上着の中に入り込んできた手に、ついに耐え切れなくなる。
「お、俺っ……俺は!」
金縛りを無理矢理振り切って、肩を押し返す。
「俺は、シグルズ空尉の操舵手〈ラダー〉です! だから、……だから、俺に触れないで下さい!」
言い終わるや否や駆け出す。後のことなど考えられなかった。とにかく逃れたかった。
手洗いの表示を見つけて、咄嗟に入ってしまう。向こうも同性なのだから、追い掛けて来られたらいよいよ逃げ場がないのだが、そう考えが及んだのは逃げ込んでしまってからだった。
しんとした手洗い場は、ここも全てがぴかぴかで、木目調の内装は余計な音を吸収する造りのようだった。そこで身を縮めて耳をそばだてていたが、空佐は追って来ないようだった。やはり彼にとってはイェークへの興味はただのからかいで、少し挨拶しただけのつもりだったのだろうか。
それでも、イェークはこみ上げる不快感にその場に屈んでしまっていた。洗面台の淵に指を掛けて、ぶら下がるみたいに縋った。
ともだちにシェアしよう!