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19b 綺麗な青、鮮やかな赤
「はあ……」
心臓はむしろ今になって鼓動を思い出したようだった。まだ身体には全然力が入らないが、じっとしていればだんだんと血の巡りが戻ってくる。
冷静さを取り戻してみれば、大変なことをしてしまったのではないかという不安に駆られた。シグルズよりもずっと階級が高くて、きっとドレッドノート家の中でも地位のある人を押し退けて、触れるなとさえ命令してしまった。これは軍法上の不敬罪に当たるのだろうか。もしそうだとしたら、イェークばかりでなくシグルズも、何らかの処分を受けてしまうかも知れない。
そう思い至ると、また心臓が鼓動を潜めそうだった。ふらつきながら何とか立ち上がっても、鏡に映った自分の顔は土の色をしていた。
握り締めていた左手を開くと、シグルズが貸してくれたサングラスがあった。とにかくこれを掛けて戻って、説明して謝ろう。……許してくれるだろうか。それとも、今度こそ叱られるだろうか。叱られるくらいで済むだろうか。
サングラスを掛けた視界は暗い。イェークにとっては少し大きめなので、掛かり具合を鏡で見ながら調整することにした。そこで初めて、入り口に立っている人物に気が付く。黒づくめに黒の目出し帽、明らかにまともな人物ではない。
鏡の中のその人物が握っている光るものを、反射的に目で追う。刃物だった。
「わああッ!」
凶悪に煌めく銀が迫り、目と左腕に熱さを感じて後ろに倒れる。サングラスが吹っ飛んで床に落ち、滑って転がっていくけたたましい音がした。
「ぐっ……」
イェーク自身も腰を床に、後頭部を壁に、強く打ち付け息を詰める。
再び刃が振り上げられる気配がした。もう避けられない! 本能的に顔を覆い、身体を丸めて衝撃に備える。しかし、それと同時に遠くから複数の足音が走ってくるのが聞こえていた。警笛が甲高く鳴らされ、怒号が飛び交う。
目の前の気配は、ほんの数秒間の迷いの後、イェークの側から逃亡した。硬い、歩幅の狭い靴音が遠ざかり、すぐに消える。けれどイェークはそれを追うどころではなかった。顔の左上の熱さを手で押さえる他に、何も出来ないのだ。
前が見えない。何かが当たった場所が熱い。大勢の足音がすぐ前まで来て、数人がかりでイェークを支え起こしてくれる。けれど、周りは暗いままだった。何があったのかを問う声は遠く、自分の呻く声だけが耳元にあった。
どういうわけか、これまで乗ってきた色々な機体の操縦席が脳裏に浮かんできた。初めて空を飛んだ練習用のプロペラ機……学校の卒業前、特別に乗せてもらった戦闘機……先輩について仕事を覚えた貨客機……そしてシグルズと飛んだ銀色のマルチロール戦闘機……。
「イェーク……?」
よく知ったバリトンが聞こえ、胸がぎゅうっと痛んだ。
「イェーク!」
その声が、すぐ前まで来てくれる。
「シグ、ル、ズ……」
その名を呼んだ瞬間、置かれた状況の恐ろしさに悲鳴を上げそうになった。喘ぐように息をする肩を掴まれる。
「イェーク、お前……」
そんな、まさか。
まさか。
たくさん訓練をした後、よく出来たところをぶっきらぼうな言葉で褒めてくれた優しい声。声よりも優しい、頭を撫でてくれる手つき。よく狙ったのに鉄砲の玉が的から外れて、呆れられたこと。
鳥のように自在に飛ぶシグルズの飛行演技。
二人で飛んだ、どこまでも続く快晴の空……。
「イェーク……」
シグルズの声がだんだん震えてくる。
貼り付く喉で必死に呼吸をしながら、ゆっくりと、力の入らない手を無理矢理に顔から離す。そして、歯を食いしばって瞼をこじ開ける。
そこには、両手に滴る鮮やかな赤が視界に広がっていた。焦点も合っている。きちんと両目とも、機能していた。
「…………見える……」
大勢の見守る中で、シグルズの吐息が静かに響いた。
全身が震えて、座ってさえいられなくなった。シグルズに支えられながら、その場にへたり込む。力強い腕に抱かれ、イェークは半狂乱でそれに縋った。歯の根が合わず、過呼吸みたいに喉を喘がせる。何度か顔に触ってみて分かったが、切られたのは目尻の際のあたりだ。眼球は無事だ、出血はあるが。
「誰にやられた」
低く押し殺した声で、シグルズが問う。
「待てシグルズ、先に医務室だ」
シグルズの後ろでその肩を揺すっているのは、シンフィーだ。だがシグルズはその手を振り解く。
「誰だ! 言え!」
大声で凄まれ、思わずその目を見てしまう。
「…………っ、…………ぁ…………」
視界いっぱいに青が映り、すうっと意識が遠のきかける。絶大な権力を象徴するその瞳の青と、操縦席から見た青がぐちゃぐちゃに入り乱れ、世界が灰色になって身体が弛緩する。力が入らないどころか、全身にぞっと悪寒が走った。氷水をかぶったよりも強烈な痺れで、指の先から壊死していくようだ。
「イェーク……? え、どうしたの、何?」
人だかりを押しのけて、カイが辿り着いた。シンフィーはそのカイへ向かって、つかつかと歩いていく。そしてその頬を容赦なく平手打ちにした。首を竦めてしまうほどの破裂音が辺りに響き、集まった野次馬が一様に息を呑む。衝撃でよろけたカイは、華奢な肩を壁にぶつけてずり落ちた。
「イェークから目離すなっつっただろ。何やってんだお前」
「う……っ、申し訳、ありません……」
平手を受けた頬を押さえながらカイが立ち上がり、シンフィーの前に跪く。その手を取って、指先に恭しく口付ける。
「どうか、お許しを……」
それをもって、シンフィーは溜飲を下げたらしい。ふうと息を吐いてから、周りの野次馬を顎でしゃくって追い払う。
「手伝う気がある人間以外は帰ってくれ。警護こそ何やってんだ、規制線はもう敷いてあるな? 一応近くも見回っておけ。それから、このあたりは入念に調べろ。何か犯人の痕跡があるかも知れん」
次にシンフィーは、固まったままのイェークとシグルズを見下ろした。
「シグルズ、お前も頭冷やせ。まずイェークの手当だ。いいな」
「……」
シグルズは返事こそしなかったが、伏せられた目はいつもの冷静さを取り戻していた。イェークに立ち上がる気力が残ってないことを悟ると、背中を支えながら膝の下に腕を入れ、抱き抱えてくれる。
シグルズの胸に体重を預けると、いつもと変わらず暖かい。けれどもイェークは、いつまでも顔を上げることが出来なかった。色々なところが、じんじんと嫌な熱を持って痛み始めていた。
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