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20a 傷
イェークはシグルズの部屋へ運ばれ、ドレッドノート家お抱えの医師の診察を受けることになった。左目の際に出来た傷は、下瞼からこめかみにかけて一直線、人差し指くらいの長さに及んでいた。だが、伸縮する特殊な白いシートを貼ってもらうと、不思議なほどに痛みは消えた。出血もかなりあったし傷の範囲も広いが、浅かったために、清潔にしておけば痕は残らずに済むそうだ。
その目の傷に完全に気を取られていて、イェークは自分では気付かなかったのだが、むしろ目を庇った左腕の方が重傷だった。スーツの袖も大きく切り裂かれており、手首から肘のあたりにかなりの衝撃を受けたことが窺えた。こちらは何針か縫うことになり、麻酔をかけたため処置には時間がかかった。
動かせるまでにどのくらいかかるのかを訊ねると、回復の程度による、という曖昧な回答だった。イェークは質問を変え、十日後に飛行機の操縦をしても問題ないかと訊ねた。包帯は取れないだろうが、恐らく大丈夫だと言われ、ずっとあった心の支えが取れて胸を撫で下ろす。
どうしてもその日に休むわけにはいかなかった。その日は、イェークがいよいよ本物のスレイプニルに搭乗する日なのだ。一番広くて長い滑走路を空けてもらい、初めてその操縦悍を握る。シグルズと指折り数えて待っていた、大事な日だ。
仕事に影響しなくて済むと分かり、イェークの枕元に付き添ってくれていたシグルズに笑いかけた。だがシグルズの反応は薄く、ほとんど無表情で、床や窓の外ばかりを見つめていた。
診察と治療を終えた医師が屋敷を辞するというので、ようやくシグルズと二人になれると思ったのだが、シグルズは医師と共に立ち上がってしまう。
「お前は今日はここで休め。警護を部屋の外につける、何かあればそいつらに言い付けろ」
「え……」
「ここは安全だ。明日の朝はすぐ出発する。そのつもりでいろ」
それだけ言い置くと、シグルズは踵を返してしまった。まだ麻酔が効いているとはいえ、身動きすると腕にひどい違和感があり、ベッドからすぐに立ち上がって追いかけことは出来なかった。部屋の明かりが落とされ、扉も閉められてしまう。廊下の光も届かなくなって、イェークの目の前は暗闇になった。
「安全がほしかったんじゃ……ないんだけどな……」
少ししてから目が慣れてきて、窓から差し込む外灯が頼りになった。静かな部屋で耳を澄ませていると、昼間は眺める暇もなかった庭の噴水の音がここまで届いていた。けれど、身を乗り出してその噴水を見ようという気にはとてもなれない。
「あ……サングラス!」
慌てて顔を押さえるが、触れるのは自分の素肌と、貼ったばかりの傷を保護するシートのみだ。あの時、襲われた衝撃で転がっていってしまったのだ。
(どうしよう……シグルズが貸してくれた物なのに)
すぐにでも探しに行きたい衝動に駆られたが、これ以上余計な行動をして迷惑をかけるわけにもいかない。明日探してもらおう。または、誰かが拾ってくれているかも知れない。そう念じて、イェークはそっとカーテンを引き、ベッドに横たわった。
サングラスのことはずっと頭から離れず、緊張状態も収まらない。そのうち麻酔も切れたようで、腕の痛みもぶり返してきた。しばらくとても眠れない状態が続いたが、その後もシグルズは来てはくれなかったようだった。
イェークが目を覚ましたのは、その翌日、かなり日差しが強くなってからだった。昨日あんな迷惑をかけた上に寝坊までして、慌てて部屋を飛び出したのだが、扉の前にいた警護員に半ば強引に部屋に戻された。しばらくするとカイがサンドイッチを持ってやって来て、イェークが自然に目を覚ますのをみんなで待っていたのだと教えてくれた。
サンドイッチは二人で分けたのだが、それを頬張るカイの顔には湿布が貼られていた。
「昨日、ごめんな。俺がフラフラ出てったせいで、カイがシンフィーさんに怒られる羽目になって……」
「ああコレ? 気にすることないよ! 音が派手だっただけで、そんなに痛くはなかったよ。半分は吹っ飛んだフリだったしね」
「そうなのか?」
「うん。もう痕もないし。ホラ」
そう言って、カイは湿布を剥がそうとする。
「い、いいって! 貼っとけって」
「そう? それならそうするけど。むしろ、僕こそごめんね。イェークを一人にしなかったら、こんなことにはならなかったのかな……」
食欲なんか出ないと思っていたのだが、目の前で一緒に食べられると、つられてイェークも食べてしまった。カイはそのために朝食を遅らせていたのかも知れない。
「僕のコレは本当に気にしないで。ただのパフォーマンスだったんだよ。だってああでもしないと、シグルズは興奮して人の話聞いてくれなかったでしょ」
「それは……」
あのまま凄まれていたら、イェークも状況を説明するどころではなかっただろう。恐慌をきたしたままでは、傷の手当ても出来なかったはずだ。
「それと、シンフィーも牽制したかったんじゃないかな。僕のご主人様は自分です! ってさ」
「牽制?」
「あの時、僕がおじさんたちに捕まって動けなくなってたのは、シンフィーだって分かってたんだよ。だからわざと見せびらかしたんだ。僕を好きに出来るのはシンフィーだけだし、僕もシンフィーだけには何をされても絶対服従だ、ってね」
「そ、そうだったのか……」
あの一瞬の間に、そこまでの意思疏通が出来ていたのだろうか。サンドイッチを食べ終わって、ぺろりと指を舐めるカイを改めて眺めてしまう。
「シンフィーとカイって、そんなに付き合い長いのか?」
「ううん、初めて会ってから、十ヶ月くらいかな?」
「そんなもんなのか。もっと長いのかと」
「長くはないけどね。まあ、相性はいいかな。何のとは言わないけど」
それはほとんど何の相性なのかを言ってしまっているのではないかと思いながら、イェークは曖昧に頷いておいた。
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