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25a シギュン

 突然意識が浮上して、イェークはまず今日の予定はどうだっただろうか、まさか遅刻したのではないだろうかと焦って、枕元にあるはずのシグルズのタブレット端末を手で探してしまった。  しかしこじ開けた目に入ってきたのは驚いてこちらを覗き込んでいるカイであり、そこでここがシグルズと自分の部屋ではないことに気が付いた。 「イェーク……? よ、良かった! 僕が分かる? 良かったぁ……!」  涙声になったカイが、イェークの寝ている枕元に縋る。 「本当に、良く生きて……っ。……良かったよぉ」  カイはそのままイェークの肩口に額を埋めて、啜り泣いているようだった。 「カイ……ん、何だこれ」  右耳の近くに何かが固定されていて、触るととても冷たかった。氷嚢だろうか。 「あ……先生呼んでくるね。急に動いちゃダメだよ」  それだけ言い置くと、カイは涙を拭いながら出て行こうとする。瞬時に自分の状況を思い出し、意識を手放す直前、最も心配していたことが口をついて出た。 「あっ、ちょ、シグルズは!」  カイは閉めかけた横スライド式の扉を止め、顔と手だけ出した状態で笑い、部屋の奥をチョイチョイと示した。首をそちらに向けると、そこには……眠っているシグルズの姿があった。口には呼吸器のようなものが当てられ、色んな管が機械に繋がれているが、心電図らしき電子音が規則正しく鳴っている。  良かった。そのカイの言葉の意味がようやく理解できてきた。生きて戻ってきたのだ、彼と共に。じわりと目頭が熱くなり、視界がぼやける。枕にぽろぽろと涙が溢れ落ちた。  イェークが眠っていたのはほんの数時間で、診断は軽い脳震盪だった。着陸の時に座席から放り出されて頭を打ったのが原因だろう。ニ、三日はなるべく安静にするよう言い渡された。  シグルズの方は、一時は危険な状態になったが、手術で何とか一命を取り留めたとのことだった。今は容態は安定しているが、麻酔から覚めるまではもう少しかかるらしい。出血が多く、体力が戻るまでには数週間ほど必要だそうだ。  イェークが手洗いに行くためそっと病室を抜け出すと、ようやくここが軍付属の病院であることが分かった。時間は丁度日没が始まる頃合いで、朱色の陽光が容赦なく廊下に降り注がれていた。  そんな中で、ある病室の前のベンチに腰掛けている女性がいた。空佐の操舵手〈ラダー〉、あの時地上に残った方、確か名前は、ジルだ。 「あら……貴方は。貴方も怪我をしたと聞いたけど……」  彼女は夕日で余計に赤く染まったウェーブの髪を揺らしながら立ち上がった。 「えっと、俺はタンコブだけで済んだので大丈夫です。シグルズも、そのうち起きるそうです」 「そう……。本当に驚いたわ。よくぞ帰ってきてくれたわね」  イェークはその病室の名札を見て、やはりと思った。『アン・フライト』。イェークとシグルズが撃墜した、あの操舵手〈ラダー〉だ。イェークが顔色を変えたのを見越して、ジルは少し悲しそうに微笑んだ。 「ごめんなさいね、私の同僚が迷惑をかけてしまって。彼女も一命は取り留めたのよ。ただ、火傷がひどいみたいで……。勝手なお願いなのだけど、今は面会は……」 「あっ、いえ、通りかかっただけだったので。でも、命が助かったなら、それが聞けて良かったです。俺てっきり……その……」  ジルは首を振った。 「本当は、貴方にはその資格があったと思うわ。……そうね、貴方は事情を知る権利があるわ。知ってるかしら? 半年よりもう少し前、上官と操舵手〈ラダー〉は原則として一対一というルールが徹底されることになったの」 「ああ、詳しくはないんですが、聞いたことならあります」 「彼女はついこの間まで、婦人科系の病気で入院していて……それが元で、自分の処遇について思い詰めてしまったみたい。病気をしたことで、自分が解任されると思って……」 「そう、ですか……それで……」  通信機越しの嗚咽の悲痛さが、まだ耳に残っているようだった。だが、空佐はそんな素振りは見せていないようだったのに。出発前も、普通に会話していたはずだった。思い起こせば、『腹でも痛いのか』というのは、その病気を心配しての発言だったのではないだろうか。イェークはそんな事情を知らなかったし、彼女もそういう意味ではないように取っていたように見えたのだが。 「確かに、英雄色を好むと言うか、空佐は少し他の操舵手〈ラダー〉に声を掛けるのがお好きで……。彼女が病気をする前から、空佐はそういうお人だったのだけれど、貴方とシグルズさんの仲睦まじい様子を見て、変に意識してしまったのかしら……」  その時、廊下の角の向こうから知っている男性の声が聞こえてきた。 「おーいシギュン、シギュンー? どこだー。はて……シギュンー!」 「あら……噂をすれば。閣下、わたくしはこちらにおりますわ!」  ジルの声を頼りにしてか、角の向こうから空佐が現れた。 「おお、ここだったか」 「もう閣下ったら。わたくしのことは、新しい名前で呼んでくださる約束ですわ」 「そうだった。いや、ついな。そしてお前は、シグルズのところの……。あの状態で、シグルズ共々、良く生きて戻った。見事だった」 「は、恐縮です。でも……、シギュン?」  イェークにとって、その名は別の意味を持つ。そう、最新鋭の巡航戦艦『フェンリル』シリーズに搭載されている戦闘航行補助システム、それが『シギュンシステム』だ。 「ほら、びっくりされてしまったではありませんか」 「んー、すまん」

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