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第2話

数日後――。 俺は壮登と共に不妊治療の権威とも言われる小岩(こいわ)先生のいるY総合病院にいた。 不妊治療は他の診療科と異なり、デリケートな問題でもあるため、一般の診察室とは別の棟に設けられている。 待合室も明るく解放的で、壁一面ガラス張りの窓からは四季折々の花々が楽しめる中庭が見える。 不妊の原因はお互いの病気や体質・遺伝にもよるが、心的要因もあるため、出来るだけ不安を与えないような工夫がなされているのだろう。 先程からずっと俺の手を握ったままの壮登は、心なしか緊張しているようにも見える。 実年齢よりも幾分若く見える俺たちを、周りの人たちはどう思っているのだろうか。 待合室には予想以上の数のカップルがいた。 男女だけでなく同性カップルの姿も見える。少し驚いたような顔で俺を見た壮登はボソリと呟いた。 「驚いたな……。こんなに同じ悩みを抱えてる人たちがいるのか」 「陽介から話は聞いてたけど、正直……俺も驚いてる」 受付を済ませ、ソファに座ってもなお彼は俺の手を離すことはなかった。 嬉しくはあったが、照れ臭いようなくすぐったいような気がして、トイレに行くと言ってやんわりと離れた。 ヒーリング音楽がBGMとして流れてはいるが、ここで待つ人たちの心中は穏やかではないだろう。 事実、俺もそうだった。 もしも、何らかの原因で子供が生めない体だとしたら、何より待ち望んでいる壮登に申し訳が立たない。 「大丈夫だ」と言ってくれはするが、彼だって不安であることは間違いない。 受付時に配布された番号がカウンター上部に設置された液晶パネルに表示される。 俺たちはゆっくり立ち上がると診察室へと入った。 不妊治療専門医である小岩先生は気さくで人当たりのいい人だった。 決して相手に不快感や警戒心を与えることなく、妊娠のメカニズムから不妊要因の説明をしてくれた。それを理解したあとで俺と壮登は別行動で血液検査や生殖機能の検査をした。 時間はかかったが、その日のうちに結果が出ると聞き、せっかく取った休暇を有効利用すべく再び呼ばれるのを待った。 結果は――。 俺も壮登も体には全く異常は認められず、むしろ彼の精子数と質はαの中でも最上位ランクに位置付けられるレベルだった。 「こんなことをお伺いするのは失礼かと思いますが、望月さんは何か悩み事でもあるんですか?これだけ好条件が揃っているなんて、ここに来る患者さんではあり得ないんですよ。工藤さんも……何か思い当たることは?」 そう問う小岩先生に壮登は首を傾ける。 「私は何も……。もし何かあるとしたら彼の方の要因が大きいってことですよね?」 「一概には言えませんが、その可能性は考えられますね。受精する母体側が完全でなければ……」 「あのっ!俺は何も……っ。今は十分幸せですし、彼も愛してくれます」 沈みかけた空気を一掃すべく俺は声をあげた。 人前でこんなことを言うのは恥ずかしかったが、今は言葉にしなければ壮登を不安にさせるだけだ。 「――そうですか。では、しばらく様子を見ましょう。幸い望月さんの発情期も狂いなく周期的に来ているようですし、タイミングを見計らって性交してください」 医師とは言え、他人にセックスしろと言われるのは気恥ずかしい。 「焦らなくても大丈夫ですからね。まだ期間はありますし」 「分かりました」 「一応、ホルモンを増やすために誘発剤を処方しておきます。発情期になったらすぐに飲んでください」 にこやかに書類を渡した小岩先生に一礼して、俺たちは診察室をあとにした。 その夜、壮登は俺を抱くことはなかった。 ただ、ピタリと体を寄せ合ったままベッドに横になっていると、後ろから力強く抱きしめられて、反射的に体を強張らせてしまった。 「蓮……。一番不安なのはお前の方だって分かってる。心配はいらないよ」 「――うん。なんだか、ごめん。俺……」 「何も言わなくていいから。体には何の異常もないって事が分かっただけでもホッとしてる」  ふぅっとゆっくり息を吐き出しながら肩の力を抜いていく。  骨ばった壮登の指がTシャツの上から腰骨に沿って撫でる。  そのゆったりとした動きにさえ、俺の体は敏感に反応してしまっていた。 「今夜はゆっくり休もう……。毎晩、お前に負担をかけていたのかもしれない」 「そ、そんなことないっ。壮登は優しいし……」 「セックスすればいいってもんじゃないだろ?小岩先生の言う通り、タイミングを見計らってした方がいいのかもしれない」  わずかに声が掠れているのは、壮登が眠くなり始めた時の特徴だ。  慣れない病院での検査で疲れたのだろう。検査結果を待つ間、ずっと俺を気遣ってくれていたことも一因だ。 「――おやすみ、壮登」 「うん……」  Tシャツの薄い生地越しに彼の唇の熱を感じて、俺はそっと目を閉じた。  それでも眠りは浅く、何度も目を覚ました。  規則正しく聞こえていた壮登の呼吸が不意に乱れて、俺はハッと息を呑んで目を見開いた。  そして苦しげに息を吐き出して呟く彼の声に体が震えた。 「俺の……何が足りない?満たされない理由……は、なに?」  それが寝言だと分かったのは、すぐに戻った呼吸音だった。  でも――一度強張った体はなかなか元には戻らなかった。  シーツを掴む指先が震え、知らずのうちに涙が溢れ出していた。  こんなに愛してくれる壮登を無意識に追い詰めている自分。  きっと、周囲の心無い人たちからは“まだ子供が出来ないのか”と言われ続けているに違いない。  壮登の事だから、余裕ありげに笑顔で切り返し、その場を凌いでいる事だろう。  しかし、心の中では口には出せない俺への想いが渦巻いている。  体に異常もなく、それでも子が成せないというのはもう、神のみぞ知る世界の範疇だ。  医師でもどうにもならない事を、俺たちが必死に足掻いたところで無理なモノは無理なのだ。  ぴったりと触れあっているはずの体がやけに遠くに感じて、俺は声を殺して泣き続けた。  精神的な要因――。  全くないと言えば噓になる。病院では医師の手前、ああ言っては見たものの、本当は気になっている事が一つだけある。  それはここ数ヶ月、壮登の帰宅時間が遅い事だ。会社を出る前には必ず連絡を寄こす彼なのだが、帰宅予定時間を過ぎても帰ってこない事があり、その間は電話も通じない。  最初の内は急な接待や打ち合わせが入ったのだと思っていた。しかし、それが何ヶ月も続くというのはおかしい。  それに加えて、彼のスーツの上着に香水の香りが微かに残っていることに気付いた。  スパイスの効いたその香りは壮登のものでも俺のものでもない、男性用のものだと分かる。  αとΩの番は生涯に一人だけという”運命の出会い”と言われている。  俺と壮登もそうだった――と思いたい。  知らないところで浮気をしているとは思えないが、やっぱりいろいろと勘繰ってしまう。  気にしないようにと思えば思うほど、悪い方へと考えが動いていく。  優しい言葉も、キスも愛撫も、俺だけのものではないと思うだけで嫉妬し、悲しみが生まれる。 (俺の何が……足りない?あなたを満たせない理由は…?)  壮登が寝言で呟いた言葉とまるで同じことを彼に問いかける。  そのせいで妊娠出来ないというのなら、いっそハッキリさせた方がいい。  でも、彼に面と向かって聞くことは憚れる。  それによって上手くいっていた俺たちの関係に深い溝が出来るような事だけは絶対に避けたい。  かといって彼の同僚に聞いたり、興信所に調べてもらうのも、ハナから浮気を疑っているようで後ろめたい。  背中に彼の寝息を感じて、そっと体の向きを変えて向かい合う。  利発そうな額にかかった黒い前髪がさらりと滑り落ちる。  長い睫毛、鼻梁が通った凛々しい顔は、目を閉じているだけでこんなにも印象が違うものかと思う。  仕事中はこげ茶色の瞳をギラギラと輝かせ、家に帰ってくるなり優しく穏やかになる。  そして――俺を抱く時は、生まれながらに引き継いだ獣の血が目覚め、眼光強く野性味を帯びる。  長く伸びた爪と鋭い牙が俺の体に“証”を残していく。 「壮登……」  小さく囁いて、彼の頬に触れる。  疑いたくはない。でも……。  不安に揺れる夜は、俺の眠りをまた妨げていった。

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